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翌日、自分で歩けると言い張る志野をどうにかなだめ、日向の背に背負わせた。
しばらく、志野はからだを固くしていたが、いつの間にか日向の髪に頰を付けるような姿勢で脱力していた。どうやら、眠ってしまったらしい。
日向は、主人の尻を支えている大身槍を少し揺すって楽な格好にしてやり、なんとも複雑な感情を持て余しながら笑った。
「おれとて、不本意なのですよ、殿下」
誰にともなく、日向はつぶやく。
その声は僅かに弾んでいた。
「殿下をおまもりするつもりが、まさか、おもりをすることになるとは」
背中に触れている部分が汗ばんでいる。溶けてしまうのではないかと思うほど、志野のからだは熱かった。また熱が上がったのだ。こんな状態で、よく正気を保っていられたなと感心してしまう。
耳のうしろに、喘ぐような荒い寝息がかかるのを感じながら、日向はしっかりとした足取りで歩みを進めていった。
三日目の夕暮れを目前に、一行はなんとか社に到着することができた。
日向の背から降りた志野は、日向の肩を借りながら、おぼつかない足取りで社の中に入っていった。
その背中を、彼らは黙って見つめていた。
「……祈りというものは」
芒の隣に立ち、日向が呟いた。
「いったい、なんなのだ。
神は殿下をどうなさるおつもりか」
それはごく素直な問いかけだった。
芒は社の朽ちかけた扉を見つめたまま、つぶやくように言った。
「神子は、神でもなく、人でもない。
現世(うつしよ)と常世の境に立ち、常世の頂点におわす神の言葉を現世に伝える者である」
書物の復唱だった。
日向が唸った。
「神が殿下の御心を試されているのだということはもちろん承知している。
だが、これは少々……度がすぎる気がせんでもないのだ」
「殿下が真実神子たるに相応しいお人であるなら、神さまは、あの人をみすみす見放したりはしないよ」
「もしも神が殿下を見放すようなことがあれば、相手が誰でも、おれは刃を振るうぞ」
ふいに日向の声が低くなった。
鋭く社を睨みつける、燃えるような目を見上げ、芒はそっと目線を落とした。
「……わたしは、殿下を信じる」
主人の、溢れるような生の輝きに満ちた金の眸が、芒は好きだった。
あの人には、無意識に人の心を惹きつける天性の魅力がある。
清らかさも、醜さも、そのすべてが偽りのない己の姿であるとして受けいれ、抱き締めてしまえる心の強さは、きっと、なによりも尊い。
神も神子も皇子も関係ない。
芒は志野自身のことを、心から信じている。
──社の中に足を踏み入れた時、すうっとした冷たさが胸を撫で、頭の中が冴えていく心地がした。
空気はピィンと張り詰め、明り採りのない室内では、木々が葉をこする音さえ聞こえない。
段違いになっている板の間の奥に、小さな祭壇が見えた。
板の間に上がる手前で履物と着物を脱ぎ、うなじで髪を結わいていた紐をほどく。
肌着一枚の姿になると、おれは深く深呼吸し、うっすらと埃を敷いている板の間に足をのせた。
祈りの方法など知らない。
おれはおれなりのやり方で神の前に身を晒す。
媚びなどしない。しもべにもならない。いかに己の潔白を並べ立てたとて、すべて見通されているのだ。
「……神よ。おれはあなたには屈しない。
どれほどおれを苦しめたところで、おれはけっしてあなたを畏れはしないぞ。
あなたにおれの心を認めさせ、おれは生きのびてやるのだ。
おれと同じその金の眼で、しかと見ているがいい」
どうせ見抜かれているなら、いっそ。
不遜だろうが、愚かだろうが、知ったことではない。これがおれだ。おれ自身の姿だ。
さあ、受けて立とう……
──夜がふけた。
ぬるい風が湿った髪をゆする。篝火がパチパチと爆ぜる音を聞くでもなく聞きながら、春臣は眠れぬ刻を過ごしていた。
ふと、視界の端に動くものをみとめて顔を上げた。チィだった。
灰色の目をした小さな獣は、愛らしく鳴いて、春臣の膝にぴょんと飛び乗る。
指のはらで額を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「静かな夜だねぇ」
ゆったりとした声。春臣に微笑みかけながら、芒は、よいしょと隣に腰を下ろした。
手に持っていた麻の袋から、パンと、朱果(しゅか)の煮蜜(=柔らかい木の実を潰して砂糖と花の蜜と一緒に煮詰めたもの)の入った小瓶を取り出す。
パンを千切り、木匙ですくった煮蜜をたっぷりと垂らしたものを、春臣に食べるようすすめた。
「きみ、昨夜からなにも食べてないでしょう」
春臣は黙っていた。
芒の手元にあるパン。空腹時ならつばがわくほど欲しくなるはずだが、春臣は、手を伸ばそうともしなかった。
芒は首をかしげて、彼の顔を覗き込んだ。
「少しでも食べないと、からだがもたないよ」
「……」
「殿下のことがそんなに気になるかい」
志野は昨夜から、水とひと匙の煮蜜しか口にしていない。食べられなかったのだ。
日持ちのする固いパンやチーズでは、弱っている胃の中にはとても入れられなかった。
そのうえ、社の中にいる間は、食べ物はおろか、水さえも口にしないのだという。
主人がそんな状態であるから、食べなければならないと分かっていても、どうしても手を付ける気にはなれなかった。
結局、芒は千切ったパンを自分の口に放った。
うまそうに頬張りながら、麻の袋から取り出した木の実をてのひらにのせて、チィに与えた。
「殿下が病をお落としになって戻られたとき、きみがふらふらじゃ、意味がないと思うけれどね。
それに、はらがへっていると気も塞ぐ。
気丈でいたいのなら、食べることだよ」
「……」
そんなことはわかっている。
そのせいで自分がいま、わけもなく苛立っていることも、春臣は自覚していた。
「……べつに、きみが食事を摂らないのはきみの自由だけれど、殿下がきみのやつれた姿を見たら、どう思われるのかな。
きみがうまくごまかしたって殿下はお気づきになるだろうし、もしもそのことについて聞かれたら、わたしはつつみ隠さずほんとうのことを申し上げるよ」
春臣は、顔をしかめて芒を見つめた。
灰色の透明な眸の中に、篝火の朱がゆらゆらと揺らめいていた。
「そんな顔をするということは、自覚があるんだ。
わたしのことを卑怯だと思うかい。
だが、残念だけれど、それを言う資格はきみにはない。きみのほうがよっぽど卑怯だもの」
「……どういう意味です」
芒は目を光らせたまま、ちょっと笑った。
「ああ、ようやくしゃべった。
あの殿下のおそばにいて、きみほど無口なのもめずらしい」
「どういう意味かと聞いているんです!」
知れず語気が強くなった。
ハッと口を閉じた春臣に、芒は目を細めて微笑んだ。
「殿下のことを心から信じているんなら、いま、きみにできることは、殿下のお苦しみをまるで己のもののようにしてふさぎ込むことじゃない。
殿下をもっともおそばに感じている身でありながら、殿下が望まれぬとわかっていることを敢えてしているきみは、わがままで、盲目的で、卑怯だ。
わたしの言う意味がわかるかな」
「……」
「きみは殿下の"特別"だが、"例外"ではないんだ。
きみはあくまでもきみであって、殿下の一部ではない。
あの方のおそばに身を置き、その尊いお心を支えて差し上げたいと思うのなら、酔いしれ、おのれを見失うことは許されないんだ、春臣」
心臓を、ずくりと太い針でつらぬかれたような心地がした。
芒の言葉で、自分があの人の一部であるような気になっていたことに、春臣ははじめて気が付いた。……ゾッとした。
己がいかに自惚れていたのか。盲目であったのか。
しっかりと歩いているつもりだったのに、ふと、立ち止まって下を見たとき、崖のすれすれを歩いていたことにようやく気付く。
晴天の霹靂だった。
「……芒さま」
春臣は、自身のからだを強く抱き締めた。
「わたしは……とんだ痴れ者です。
殿下を想うあまりに、すべきことを見失っていた……」
恥ずかしくて、消えてしまいそうだ。
なぜ、いままで気が付かなかったのだろう?
春臣は芒の方にからだを向け、深く深く頭を下げた。
「芒さまのお言葉、しかとこの胸に刻みつけました。
もう二度と、このようなことがないよう、つねに己を厳しく監視してまいります」
頭の上で、芒がくすくすと笑った。
「きみは、少し真面目すぎるんだ。肩の力を抜いて、深呼吸して、広い心で周りを見渡してごらん。
きっと、それまで見えなかったものが、たくさん見えてくるよ」
春臣は頷いた。十一年もの刻を経て、ようやく、青年の心の殻にヒビが入った瞬間であった。
芒は満足そうに笑って、パンの入った袋を春臣に押し付けると、ゆっくりと腰を上げた。
ふと、春臣を見下ろした彼の目に、いたずらっぽい光が浮かんだ。
「しっかりお食べよ、春臣。
この一件が片付いたら、なんといっても、殿下はごぶさただからね、体力はつけておくだけ損はない」
春臣は真っ赤になった。
「……芒さま!」
芒がひらひらと逃げるように立ち去ってしまうと、春臣はすっかり拍子抜けした気分で、大きくため息をついた。
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