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3年ぶりに訪れたその屋敷の庭は、一面が真っ赤な彼岸花に覆われていた。
曼珠沙華、リコリスとも呼ばれるこの花が、美しくも恐ろしいように思えるのは、恐らくその生え方が独特だからだろうと思う。
地面から、唐突に生える茎。そして、その頂点にくわっと咲く赤い花。
花のある時に葉はなく、葉のある時に花は無い。百合の仲間なのに、カサブランカとは対極にあるような……だが、美しい花。
その全草が有毒で、特に球根には、死に至るほどの毒が含まれることもあるという。
庭に……こんな花を植えるなんて。
わたしはぞっとしながら、庭を歩いて屋敷の玄関の呼び鈴を押した。
3年前まで、その呼び鈴の音を聞いて、インターホンに応じるのはわたしの仕事だった。わたしは住込みの使用人で、ここには資産家の旦那様と、美しい奥方が暮らしていた。
今でも、あの美しい夫婦はここに棲んでいるのだろうか?
この彼岸花は、どちらの趣味で植えたのだろうか?
どうして――今更、わたしは呼び出されたのだろうか?
わたしの犯した過ちなら、3年前ここを出る時に、清算された筈なのに。
「お久し振りね、トシさん」
相変わらず美しい奥方は、わたしを玄関まで出迎えてにこりと笑った。
「はい、奥様もお変わりなく」
わたしは緊張して頭を下げた。
3年前の事など忘れてしまったかのような、わだかまりのカケラもない笑み。
だがわたしは、彼女の変わりない微笑みよりも、屋敷の中の変わりように驚いた。
見る影もなく、くすみきった廊下。蜘蛛の巣の張った天井。ほこりだらけのシャンデリア。
カーテンは色あせ、窓は風雨に汚れきり、空気の入れ替えもしていないのか、どんよりとした異臭がする。
こんな中に暮らして、奥方は平気なのか? 旦那様は? この惨状に何も言わないのだろうか?
確かに、元々愛のない結婚だったというし。わたしがいた3年前には、会話もないくらいに冷え切ってはいたけれど――。
すすけたリビングに通されたわたしは、ほこりの積もったソファに浅く腰掛け、ごくりと生唾を呑み込んだ。
「どうぞ、お楽になさってね」
奥方が麦茶らしい飲み物を、盆に入れて運んで来た。
「お構いなく」
わたしは恐縮して頭を下げたが、奥方は盆のままそれをテーブルに置き、わたしにどちらか1つ取るように言った。
一介の元・使用人としても……これがおかしいという事は、なんとなく分かった。普通、客に対してそんな真似はしないだろう。
地味な嫌がらせか? それとも、お前など客ではないという意思表示だろうか?
だが、まあ、文句の言える立場でもない。
グラスまで汚れていれば最悪だろうけれど、幸いにも清潔そうに見える。
百合の柄と、彼岸花の柄。なんとなくどちらも取りたくなくて、わたしは目を逸らし、奥方に訊いた。
「旦那様は、今日は……?」
てっきり、いないと言われると思ったのに、奥方はあっさりと答えた。
「ああ、庭にいるわ」
その目線の先、リビングの掃き出し窓からは裏庭が見える。裏庭にも思った通り、一面の彼岸花が植えられていた。
旦那様の姿は見えなかったが、なぜか庭の真ん中に、大きな穴が開けられているのが目についた。
あの穴を――掘っていたのだろうか? 旦那様が? 何のために? しかし、姿がない。
光に透けて金に輝く、色素の薄い髪を思い出す。
やわらかで、ふわふわの猫毛。わたしを見つめる涼やかな瞳。
わたしの愛した彼の姿を。
『トシキ君』
少し高めの優しい声が、わたしの名を呼ぶのを聞いた気がした。
「……いらっしゃらないみたいですね」
わたしがそう言うと、奥方は小首をかしげて、「あら、そう?」と言った。
「それより、どうぞ」
再び勧められれば断わるのも気まずくて、わたしは盆の上の2つのグラスを見比べた。百合の柄と、彼岸花の柄。百合の柄と、彼岸花の柄。
迷った挙句、彼岸花の方を手に取って、一口だけ中身を飲む。
別に、普通の麦茶だった。氷もないのに、よく冷えていた。
そこでようやく奥方は、わたしの向かいのソファに座った。そして百合の柄のグラスを手に取り、その中身を一気にあおった。
そして。
「折り入ってあなたにお願いがあるの」
と言った。
「私が死んだら、あの穴に埋めて下さらない?」
意味が分からなかった。
――死んだら?
――あの、穴に?
「あなたには断れない筈よ」
彼女は高らかにそう言って、にこりと笑った。
「だって、主人を死なせたのはあなたですもの」
「……はっ?」
勿論、身に覚えのないことだ。死なせたなどと、どうして?
だいたい不貞が明らかになった3年前に、わたしを切り捨て、ここから放り出したのは旦那様だ。
いや、待て、誰が亡くなった、と? 旦那様が? そんな話、聞いたこともない。
彼程の資産家が亡くなったなら、新聞に載らない筈がない。新聞のお悔み欄など、毎朝チェックはしていないが――それでも。嘘だとしか思えなかった。
わたしが返事をしないでいると、奥方はどこからか1枚の封筒を取り出して、すっとわたしの前に置いた。
「主人は自殺したの。あなたがいなくなって間もなく。……あなたに捨てられたと絶望して」
「なん、ですって……?」
空耳かと思った。
有り得ない。捨てられたのはわたしの方だろう? 妻に子供ができたから、と。「だから、もうやめよう」と。
わたしがここを出て行く時だって、顔を見せてもくれなかった。
『ぼくのことは忘れてくれ』
扉越しに、そう言われただけだった。
そういえば……あの時の子供はどこにいる?
もう2歳になるのでは?
わたしの問いに、奥方は夢見るように言った。「庭にいるわ」と。
庭に子供の姿はない。旦那様も。あるのは彼岸花だけだ。そして、真ん中に空いた大きな穴。
「私をそこに埋めて頂戴。主人と、主人の子の横に」
「……悪い冗談はやめて下さい」
胸やけがするのを必死に抑え、努めて穏やかに言いながら、わたしは奥方に視線を戻した。
そして息を呑んだ。
奥方は――口から一筋、血を流していた。鼻からも。眼、からも。
――毒?
いつ毒を飲んだのか、とは、怖くて考えたくなかった。
目の前には、彼女の呑み干した空っぽのグラスが置いてある。百合の柄の。わたしが選ばなかった方の。
もしわたしが、そちらのグラスを手にしていたら、どうなった?
一口飲んだだけなら助かったか? それとも?
どさり、と奥方がソファに沈んだ。
「……奥様?」
返事はない。
肩を掴んで揺さぶろうとしたが、触れる直前でちゅうちょする。
わたしは震えながら目を逸らし、先ほど差し出された封筒を手に取った。中にはこの屋敷の権利証と、離婚届が入っていた。
旦那様と――この人との。
これがこの人の復讐か? 旦那様が死んだ今、何の価値もない紙切れ1枚。3年前に欲しかった1枚。
そして、これと引き換えに、わたしにここで墓守をしろと?
彼女と、子供と、彼女の愛した男の墓を眺めながら、ここで一緒に朽ち果てろというのか?
彼岸花には毒がある。
畑のあぜや墓地に多く見かけるのは、毒を利用した動物除けの名残だという。
作物を食い散らかされないように。死体を――暴かれないように。
わたしは何も考えられず、座ったまま呆然と窓の外の穴を眺めた。
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