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過程-11
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暗澹たる心境とは、どのような状態を指すのか。学のない大河には正確なことは分からないが、今の状況は暗澹と言えば暗澹を言える気がする。前途が霧に覆われて見えなく、言いようもない不安に駆られる。
そんな負の感情が僅かに和らいだものの、やはり完全なる安堵は出来ない土曜日の朝だった。
あの日の放課後、大河はすぐに帰宅した。宇佐美との一方的な約束を忘れていた訳ではない。SHRが終わり放課後の騒然の中、宇佐美の刺さる視線に気づきながら気づかない振りをして早急に教室を出た。
どうして宇佐美を無視したのか。理屈ではない何かで、宇佐美の言葉の端々から滲み出る苛立ちというものに本能で危険を感じ取ったと言えばそれで済む話だった。とにかく、あの日は宇佐美と話してはいけないと思ったのだ。
土日になれば宇佐美と顔を合わせる必要もない。休日をこんなに待ち遠しく思ったことはなかった。たとえ、一日中の追考査が待ち受けているとしてもだ。
「ほいじゃあ、先に講義室行ってて。あとからテスト持って行くから勉強でもしてろよ」
「受けるのは俺一人だけか」
「一応な。だからカンニングは出来ないぞ。あ、まあ最後にもう一人来るけど」
という訳で、職員室で準備をしている柏木を置いて講義室へ移動する。
午前三科目、午後二科目の日程で今日の追考査は行われる。残り四科目はまた後日となるが、いつ何を受けようが前もって試験勉強はしていないのだから科目に関して一喜一憂する必要はない。数学でも英語でも世界史でも、問題を見ても分からないし「仲宗根大河」と名前だけ書いて残り時間は寝ようかという考えにさえ至る。
しかし流石にそれはあんまりかと思い、結局は一通り問題に目を通した。そうして一科目ずつ片づけていると、今日最後の科目である古典の時間になった。
これが問題だった。
柏木が言った「もう一人」が。
「んー、じゃあ……仲宗根の対角線上に。離れて座ってくれ」
「うぃっす」
(な……)
柏木が「もう一人」の生徒を連れて、古典のテストを携えてやって来た。窓際最前に座る大河と最も離れた廊下側最後尾に、その生徒を座らせる。――宇佐美だ。
(あいつも追試なのかよ)
途端、比較的平穏だった筈の土曜日が陰惨な休日になった気がした。気分から、額に変な汗が滲む。すぐ傍に暖房があるが、そのせいではないだろう。
振り返ると、目が合った。大きな失態を犯してしまったような気分になって即座に前を向くが、一瞬、宇佐美が笑ったように見えた。いや、確かに笑っていた。大河を見て笑っていた。やはりそれは不吉だった。
そしてこういう時に限って、運は大河を見放す。
「んじゃ、くれぐれもカンニングはするなよ。二人で協力して解くのも駄目だからな」
「…、…」
大河が物を言う前に「じゃあ時間になったらまた来るから」と言い残して柏木は颯爽と講義室から消えた。さっきまでの科目も、きちんと試験監督の仕事を果たしたりサボったりと気まぐれな行動をしていたが、よりによって宇佐美と二人きりにされるとは。
「……」
宇佐美が何かしてきたら、とかではなくて、この空間に二人きりというのが息が詰まって仕方なかった。静かに動く時計の秒針の音と、後方から聞こえる黒鉛と紙とが擦れる硬質な音だけが全てを支配していた。時間の流れは異常なほど、普段の授業の時より遅く感じる。
早く終われ。そして柏木早く来いと何度も念じながら大河は壁にかかった時計を頻りに見遣る。
「――…」
……時折、痛いほど感じる視線。背中に容赦なく突き刺さっては大河を切迫するようなそれは、宇佐美以外に考えられない。思わず振り返りそうになるのを堪え何とかやり過ごしていたが、突然、均衡は崩れた。
ガガガ、という椅子を引く音によって。
「暇」
と宇佐美は言って、立ち上がったようだった。試験開始から二十分が経過していた。
この男は何をするつもりだ。試験中に立ち上がって。黙って座って問題を解いていればいいものを。
その時、大河は飽くまで何も聞こえていない振りをして、眠っている振りをして机に突っ伏していた。宇佐美が近づいてくる足音を聞いても、全く意に介さない風を装っているつもりではあった。
それを破ったのは、宇佐美が大河の正面まで来て、机上に放り出された手に触れた時だ。さっきまでシャーペンを握っていた宇佐美の手に手首を拘束するように捕まれ、伏せていた顔を反射的に上げた。
「超、暇。テストなんかやってらんねーよな。怠すぎ」
「……だから何だよ。手ぇ離せ」
宇佐美の動向に注意を払いながら、同時に手も払う。いつ柏木が戻るかも知れない状況で堂々と接触を図ってきた宇佐美に、困惑していた。
宇佐美は、大河が思惑通りの結果を出せなかったことに憤っているのか。藤川を登校させないという命令を聞けなかったことに不満を抱き苛立っているのか。どちらにせよ、口角は上がっているものの目は不相応に冷え切っていて、宇佐美が不機嫌であることには変わりない。
失敗したら単位を落とすかもしれない追試中に問題は起こしたくない。大河が相手にしない態度を取ると、今度は机を蹴飛ばした。姦しい音を立てて倒れる。宇佐美の眉間に皺が刻まれているのを大河は初めて見た。
「何なんだよお前、何だその態度、ムカつく……」
「……ああ?」
使い古した短い訊き返しが、実は震えていたことに大河は自分でも気づいていた。宇佐美のものではないような憎々しげな声音は、過ぎた憤りと痛みに堪える呻きを孕んでいる。
大河は立ち上がって視線の高さを宇佐美に合わせたが、机がなくなって、より二人の距離が近づいたような錯覚が生じる。いや、錯覚ではない。陰の差した宇佐美の顔は暗く沈み、追い詰めるようにじりじりと迫っている。彼の中から得体の知れない怨嗟が聞こえてきそうで、大河の頭の中では警鐘が鳴り始めた。一歩、後退する。
「馬鹿にすんなよ。俺、この間、放課後残れって言ったよな? 聞こえた?」
「忘れてたんだよ」
「それは有り得ねーだろ。普通忘れるか? 俺が残れって言ったら残れよ。従順でいろって」
「俺を留まらせて、てめえはどうする気だったんだ」
「今更聞いても無駄だろ。何も起こらずに過ぎたことは気にすんなって。それより今後のこと」
「……」
「あいつを説得できなかったんだろ? 俺に何か言うことないの」
もしかして謝れと、償えと言うのだろうか、大河に。そこまでする必要があるのだろうか。
失敗したのは大河の責任ではないんじゃないかと、今思うのだ。藤川への要求に宇佐美の名を出した以上、どうするかを決断するのは藤川自身の意思であった筈だ。藤川がそれを拒んだということは、宇佐美の力が思った程に発揮されなかったということにはならないか。
……いや。きっとならないのだろう。しくじったのは自分で、宇佐美ではない。そういうことだ。
大河は自分で気付かない無意識のうちに相手を睨みつけていた。今、宇佐美を刺激してはならないことは分かっているのに、癖というものは恐ろしい。
「何だよ、その目。睨んでんなよ。仲宗根、状況分かってんの? 俺、お前の弱み知ってんだよ」
「馬鹿みてえに何度も言われなくても分かってんだよ」
十二分に理解しているつもりだった。だから大河は更に宇佐美と距離を置いた。
「お前は失敗したんだよ」
「……だったら何なんだ。お前はどうするつもりなんだよ」
失敗したからと、あの画像を添付したメールをクラス全員に送るのか。それとも変わらず大河を利用し続けるだけなのか。それともまた別の。おぞましい行為を強要するのか。
大河は一歩、後退する。そして黒板に上に掛かっている時計を見た。試験終了まであと四十分もある。秒針が進むのが分針ほどに酷く遅く感じて、苛立つ。柏木を待つよりも、職員室に乗り込んで試験妨害を訴えた方がいいのか。
「――あ」
宇佐美が弾かれたように教室の外を見た。つられて顔を向けたが教師が立っているのでもなく当然のように何の変化も見られない。隙をついた宇佐美が素早い行動を見せた。
「っ……!」
前振りも何もない、強烈な体当たりを食らって体勢を崩した大河は周囲の机に強かに背中を打ちつけた。背ばかりか、後頭部も強打する。鈍い痛みに、瞼の裏で星が散った。
思わぬ攻撃に舌を打つより早く、宇佐美は大河の身体を押し倒すと上に圧し掛かってきた。
「てめっ……どけ!」
「……仲宗根ってマゾなの?」
「はあ?」
「何で平気な顔していられんの。俺、お前が一番して欲しくないことをいつでも出来るんだよ? ケータイも今持ってるし。何で大人しくしてらんねーんだよ」
「…何が言いてえんだよ」
「実は、仲宗根にそってマズい状況に転ぶことを望んでんじゃねーのかって」
「そんな訳あるか! 変態じゃねえんだよ、俺は」
手首を捉えようとする捕縛の手から逃れながら、大河は部屋の入口を見遣った。誰が見ても喧嘩と答えるような今の状況で柏木が入ってきたら。本来は大人しくテストを受けている筈の今、不正行為の扱いとなることはほぼ確実だろう。そうなると後々に大変厄介なことになる。
「へえ、変態じゃなかったんだ? 学校で自慰してたくせに」
「っ…」
それを指摘されると反論する術がない。たとえ誤解だったとしても、その誤解は少し歪曲された紛うなき真実であることを大河も認めざるをえないのだ。
「またしゃぶらせてあげようか? それとも今度は俺がしようか」
「下らねえ冗談言ってんな、マジぶっ殺すぞ」
「冗談はそっちだろ。言葉の割に何も出来ないくせに……」
宇佐美の手が大河の股間に伸び、そこを強い力で鷲掴みにする。瞬間、酷い嫌悪感を覚え、ほぼ反射的に宇佐美の腹を膝で蹴り上げた。それに留まらず、相手の顔面を力加減なしに殴りつけた。
これ以上はシャレにならない。
「ぐあ、ッ」
ぽた、ぽた、と制服に連続的な軽い何かを感じたと思うと、宇佐美の顔から血が滴り落ちているのが目に入った。いくら手で押さえても鼻血は隙間を縫って漏れ出し、大河の制服の上に暗い色の染みを作り出す。赤い。
この際、テストとか不正とかはどうでもいい。馬乗りになったままの宇佐美の下から抜け出そうと大河はもがいたが、腹部に重い衝撃を受け床に寝転がったまま身体を折った。
「ふ、ぐっ…!」
相変わらず流れ出す鼻血も止めないまま、宇佐美がきっと彼自身の出せる精一杯の力で腹部を殴りつけてくる。下敷きにされているという不利な体勢ではろくに対抗することも叶わず、大河は滅多に経験しない集中攻撃に遭った。胃から酸っぱいものが込み上げ、喉を焼く。思わず噎せ、酷く咳き込んだ。
「ほんっと分かってねーんだな、仲宗根。立場ってのがさあ!」
「ぐぅっ」
血がべっとりとついた拳で顔面を殴られる。本来であれば大河が押し倒され劣勢に陥るという状況は有り得ない。しかしそれは飽くまでも「一般」であり、これは「例外」だ。「一般」を発揮できないのは大河の精神を制限する重石があるからだ。
「八つ当たりだって思ってんの? 確かに八つ当たりだけどさ、どうしようもねーだろ」
「な、にがだよ…ッ」
「音楽室で、使えそうなネタ見っけて、これは使うしかねーだろ。まだ藤川の面見てなきゃならないって分かったら、もうお前に当たるしかねーんだよ……!」
「お前、藤川と何が、っ」
相手の顔には一瞬、憎悪のようなものが浮かんだが、何の答えも示さない。前が開けっ放しのブレザーは容易に宇佐美の手の侵入を許した。掴み引き千切るという表現が正しい乱暴な動作で中のシャツを左右に引っ張られると、釦が辺りに弾け飛ぶ。
額に脂汗を浮かべながら、大河は誤魔化しようもなく怯んだ。それを察した宇佐美が引き攣った口元で笑った。
「俺だって分かってんだよ、仲宗根にこんなことしても何の解決にもならねーって」
「分かってんならやめろよ! お前は何がしてえんだ、藤川は何なんだよ」
「あいつは……」
息を飲み込んだ宇佐美は突然、激しく咽た。当然、鼻血はまだ止まっていない。誤って飲み込み、気管に入ったらしかった。咳き込み僅かに浮いた宇佐美の身体の下から這い出ようとしたが、俯せになった途端に肩甲骨を変に圧迫される。ゴリ、という重々しい音が自分の身体から聞こえた。
「うさっ、宇佐美……!」
「何だよ、仲宗根のくせにビビってんの? 無理矢理とは言えオーラルは出来たんだからさ、普通のセックスだって頑張れば出来るんじゃねーの?」
どんな思考回路してんだと、痛む腹も忘れ必死になって暴れるが、身体の下に潜り込んだ相手の手に急所を鷲掴みにされると息を呑む。嫌な汗が額から流れて床に到着した。
冗談じゃない。
「いや、俺だって普通に女の子が好きだよ? でもちょっと興味湧かね? 男。健全な男子高生にこの好奇心、分からん?」
「分かる筈ねえだろ、くそったれ……!! 頭おかしいだろ、てめえ、どこが健全だっ」
「つーか暴れんなよ。握り潰すよ、これ」
身を強張らせている間に自分の腰元でカチャカチャと金属同士が衝突する音が小さく鳴り、大河の中で焦燥感が増幅する。逃げ出そうにも全体重をもって脚の付け根に乗り上げた宇佐美からは、傷のついた床に手の平をついて亀のように前進することしか叶わない。
股間を容赦なく握り込まれると、決して快くない鋭い刺激で腰が浮く。
「いい加減にしろよ仲宗根。無理だってわかってんのに何で逃げようとすんだよ。そういうの徒労って言うんだよ。知ってる?」
「知らね……、っな、あ!」
ボトムの中に侵入した手が下着の柔らかい生地越しに性器を包み込み、全体を柔く揉みしだく。最初は嫌悪と絶望。だが次第に、硬直した身体の力がほぼ強制的に抜けてゆく。硬い拳を作った両手のやり場が不明で、苦しいのか悔しいのか悲しいのか自分でも分からないまま、数多の靴裏に踏まれた床を引っ掻くように爪を立てた。
「やめろ、宇佐美っ…触ん、触んな…!」
「うわ、良かった、安心した。仲宗根って打たれ強いから、痛み同様快感もさ、チンコ触っても何も感じないんじゃないかって心配したけど、すごい杞憂だった、はは」
「笑ってんじゃ、ねえよ……ッ」
とうに余裕も底をつき、いつの間にか息を荒くさせる大河の身体は、生理現象に逆うことなく昂ぶっていた。そう言えば最近は、処理を疎かにしていた。そういう時間を持つのも億劫で、何より精神に余裕がなかったからかもしれない。鬱蒼とした気分で唇を噛み、後悔した。
宇佐美の手によって施される中途半端な弱い刺激で、中心は熱を持って硬くなり始めていた。下着一枚を隔てて変化の様子を知った宇佐美は、笑いを抑えるようにして詰まった声で囁いた。
「ごめん、全然インポなんかじゃねーじゃん。寧ろ早くね…?」
「っう……あっ」
大河の意思とは無関係に細かに震え浮き上がる腰は制御しようもなく、宇佐美の好き勝手にさせる手助けをしたと同然だった。宇佐美が身体を浮かせ、大河のボトムをずり下げようとする。
今だったら逃げ出せる。
咄嗟に身体を捩ろうとしたが、変わらず刺激されっ放しの性器の先端を指の腹で強めに擦られると、気力さえも奪われそうになる。人工の生地が鈴口を攫う慣れない感覚に、先端に粘着性のある液体が滲む。
「こら、逃げんな」
「うゥっ……」
床についた肘の先が痺れているようで、冷水に浸かったように冷たい。そこだけが異常で、他は熱かった。
宇佐美は片手でもどかしい刺激を施し、もう片手で再びボトムを脱がせようと奮闘している。それに抵抗するように、さっきより自由に動かせる脚で床を擦った。スニーカーと床とが擦れる、キュという高い音。
大河に何の弱味もなければ、こんな拘束、容易に抜け出して相手を失神寸前まで殴っていただろう。しかしながら生憎、行動に繋がる心に重い枷がかけられている。
男に興味があるだとか言っておきながらも、宇佐美は本当に行為に及ぶつもりはないということを大河は確信していた。いつ教師が戻ってくるかという危うい状況なのだ。宇佐美は馬鹿ではない。それは念頭に置いている筈だ。
けれどそれとは別に、責め苦は止まなかった。八つ当たりだと宇佐美は言った。大河にショックを与えて楽しみたいだけなのだろう。今までも宇佐美は自分が愉悦に浸るために虐めを繰り返してきたに違いない。大河も例外でなく、こうして好き勝手に嬲られている。事実、大河の心は悔しさと恥辱で満たされていた。
どうしてこんな目に遭っているのかと。どこで間違ったのだろうと。頭の中で反芻するが、考えても栓ないことなのは明らかだった。窮境を脱するにしても、それは逆に宇佐美の思う壺になってしまう。宇佐美には写真という切り札がある。
逃れたいという本能の主張と、逃げても無駄だという理性の間で行われる矛盾した争い。どうするのが一番賢い選択なのだろう。大河には、分からない。
「くそ……っ!」
「すげ……もうパンツ濡れてんの分かる?」
「……黙れっ…ひ、ぅ」
耳元に、揶揄する宇佐美の息がかかる。大河の雄は相手の手によって高められ、大きく形を変えていた。触られていることは死にたいくらいに嫌なのに、身体は気持ちに反比例して顕著な反応を示す。内股が、引き攣る。靴の中で耐えるようにピンと張った足の指が攣りそうだ。
「はは、男に手コキされて喘ぐって最悪だよね。これがイイってんなら相当のマゾかホモだけど」
「黙れっつってんだろ……!」
「な、男に触られるの初めて?」
瞬間、大河の頭の中にある情景が浮かんできた。同時に下着を押し上げる亀頭部を強めに握られて喉の奥から引き攣った声が漏れた。
「つか、初めてじゃなかったら怖いんだけど。まあ普通の男なら一生、同性にいかされるなんて経験する訳ねーか」
「っ……」
虚ろで、冷たくて、何を考えているのか分からない、真っ黒な瞳。まるで当然の行為をしているかのように無言で触れてくる、不思議な温度の手。あの手で一度。
(……忘れろ、あんな野郎)
大河は固く目を瞑った。もう何も見たくない。何も感じたくない。全てを投げ出してしまいたい。
それなのに、頭の中には執拗に、あの亡霊の姿が浮かぶ。傷口に舌を這わせる犬飼の無表情。彼にも、こういう風に触られた。どんな意図があったのかなど知らない。知りたくもない。
視覚を失くすと、他の感覚が研ぎ澄まされる。どうしてか、今、大河に触れているの宇佐美と、あの時の犬飼が被る。
今、何処にいるのか。何をしているのだろう。
大河が消えろと罵った、犬飼は。
(俺のせいか)
あんなこと、言わなければ良かった、のかもしれない。肝腎な時に犬飼がいないのは、自分が自ら拒絶したからだ。
突き放さなければ、今も彼はここにいたのだろうか。大河から離れずに執拗に付き纏い、…守ってくれただろうか。……守る?
下らない考えばかりが浮かび、消え、浮かぶ。
後悔しても遅いことは百も承知だと、自嘲するしかない。
「――何してんだお前らっ!!」
講義室の戸がガラリと開かれたのは、大河が皮肉げに唇の端を上げた時だった。
その人物の声では滅多に聞かない、怒号。ぴたりと、宇佐美の動きが止まった。硬い声音で「先生」と言った。信じられないとでも言いたいような、あるいは予想していたよとでも言いたそうな、どちらとも取れる響きだった。大河の耳元から息遣いが遠のく。
「大事な追試だって分かってんだろうな!? 不正行為だぞ、単位落としてもいいのかお前ら!」
大声を教室中に響き渡らせながら柏木が荒々しい足取りで近づいてくるのが分かった。柏木の怒りを反映して、窓が震えそうな程だった。乱暴な所作で宇佐美を大河から引き離す。大河は震える腕を叱咤して上体を起こし、二人に背を向けて座った。
「馬鹿っ、テスト受けててどうして喧嘩になるんだ。流石にフォローしきれないぞ」
「……すいません」
宇佐美のか細い声を背中で聞きながら、大河は溜め込んでいた鬱々とした息を吐いた。
救われた。一瞬はそう思ったが、高められた身体は熱く、快感はとても引きそうにない。下半身で燻る中途半端な熱に、腰をもぞりと動かす。興奮した雄は下着の上から形がはっきりと分かるくらい激しく主張していた。
「一体どういうつもりなんだ。二人とも、単位落としてもいいのか。特に仲宗根、お前はかなりまずいだろ。留年の危機だろうが。……宇佐美、お前それ鼻血か? 早く拭け、酷い顔だぞ。仲宗根、お前も立って。話は指導室で聞く。ほら」
「……」
宇佐美の行為が止んだのは歓迎されるべきことだが、果たして柏木が駆けつけたのは結果的に良いことなのか悪いことなのかは分からない。
少なくとも折角、柏木が喧嘩だと誤解している以上、今の大河の身体の状態を知られるのはあまり良い事ではない。
「……床に転がってるこれ、シャツの釦か? 仲宗根のか? 宇佐美がやったのか? ……うわ、床の血酷いな」
黙っている訳にもいかず、怠惰に立ち上がって、ずり下がったボトムを上げた。ジッパーを上げベルトを締めるが、下着が濡れる程に勃起した性器が収まるには窮屈で仕方がない。擦れる感覚に唇を噛んで耐える。柏木の不審な眼差しが背中に刺さって痛い。
「おい、仲宗根……」
「……便所行かせろ」
「え!? あ、おい、ちょっと」
擦れ違い様に、腕を掴まれる。逃げるなと、柏木の目が責めていた。責めると同時に何かを探るような窺いの眼差し。大河の両目をじっと捕えて離さない。快楽で薄い水分を張った眼球の表面から大河の内に燻っているものの正体を暴きはしないかと不安でならない。
逸らし、腕を乱暴に解く。有無を言わせぬ含みで「生徒指導室」と告げる柏木の声を背中にして講義室を去った。
何事にも頓着しなさそうな風に見えて案外に敏いあの教師は、数分前まで講義室で行われていたのが喧嘩ではないことを察しただろうか。大河の震える腕に、脚に、気付いただろうか。
ぼんやりと、もし、と想像する。……結局、悟ろうが悟らまいが、どっちだっていい。もう、どう思われようが、そんなことは考えるべきではない。どう足掻いても負の連鎖は断ち切れないだろうから。
もう、どうでもいいのだ。
「っ…」
心境に反して身体が高揚しているのが、それだけが酷く滑稽だった。
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