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罪責感(1)
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僕、月岡(つきおか) 健也(けんや)には苦い思い出がある。苦い、というより黒歴史だ。だから僕はその事を誰にも話したことはない。
その黒歴史の関係者が満面の笑顔をこっちに向けている。けれど、動揺するでもなく、怒りが沸くでもなく、恐怖が蘇るでもなく、その黒歴史がばれなければいいな、と思う程度だったから、あのことが「過去」として自分の中で整理されたことを感じた。
「健也、覚えてるかな。昔よく遊びに来ていた裕大(ゆうだい)だけど」
兄・征也(せいや)に連れられてきたのはこの八年、左耳に触れる度に思い出された男だ。思い出すたびに伴う感情は様々だったけれど。
「……覚えてる」
静かに感情を込めずに答える。
征兄の中学時代の同級生で親友だった杉尾(すぎお) 裕大という名の男。僕に憧れと恋、そして恐怖と痛みを教えた男。いまはそれらのどの感情も沸いてこない。彼への感情がなくなったことにむしろ安堵した。
「実は同窓会で再会してね、八年越しで仲直りしたんだ。そうしたら懐かしい話が尽きなくて」
征兄が彼との再会を喜ぶ声を聞きながら、僕はそう、と頷いた。征兄にとっては嬉しい再会と和解でも、僕にとってはどうでもいいことだった。
「なら、僕は部屋に戻るね。ごゆっくり」
僕は背を向けて自分の部屋に入り、ドアを閉めて二人の姿を締め出した。ベッドに座れば
「めんどくさ」
思わず漏れ出てしまった。
八年前、いや十年前から裕大さんは征兄のことが好きだった。先程見た限りでは今なお征兄のことを好きでいるに違いない。征兄に向けていた瞳は昔と同じ熱を含んでいたから。少しくらいこちらに向けてくれないかと渇望していたけれど、決して向けられることのなかったあの瞳だったから。
「関わらないでくれるかな」
征兄と一緒にいれば必然的に同居している自分と関わりが生じることはわかっているが、必要最低限にしてほしい。面倒だし。
あの男のことはどうでもいいが、昔から優しかった征兄に黒歴史がバレては困る。それが心配だった。
彼に出会ったのは僕が七歳で征兄と裕大さんが中学一年のときだった。眉目秀麗で頭脳明晰の兄と、男らしい大きな体で運動神経の良かった裕大さん。見た目と性格が正反対にもかかわらず何かと気の合う二人は同じクラスだったこともあり、よく僕たちの家で勉強したり遊んだりしていた。
幼かった僕は征兄とは違う、男らしさと逞しさに惹かれて第二の兄として『裕ちゃん』と呼んで彼を慕い、その思いが恋に代わった後は構ってほしくて彼に付きまとっていた。
でも彼が好きなのは兄だった。兄と二人きりで過ごせる時間をことごとく邪魔する僕のことを、初めこそ仕方がないなと笑って流してくれていたみたいだけれど、険しい表情になることが増えていたことに僕は全く気付きもしなかった。そしてあの『運命の日』がやって来たのだ。
中学三年になった征兄たちから受験という単語を聞くようになり、進路が別になるかもと二人が話していた頃。
いつものように裕大さんが家にやって来て、いつもよりどこか緊張したような顔をして征兄の部屋にいた。征兄は階下の台所へ飲み物を取りに行っていたから、その間に裕大さんの気を紛らわそうと元気よく駆け寄った僕。
「裕ちゃん! 今日は何してあそ……」
「おまえ、邪魔なんだよっ!」
裕大さんの罵声と共に僕は左側頭部を容赦なく叩かれ、身体は飛んだ。全身に痛みは有ったけれど痛いと騒ぐよりも事態が飲み込めずにただただ叩かれた場所を押さえながら呆然としてしまっていた。
「何でお前は邪魔ばっかりするんだ! 征也に似たところがない可愛げない弟だし、お前なんていなくても構わないんだよっ」
その後も延々と続いた裕大さんからの非難。
要約すると裕大さんは征兄のことがずっと好きで、その秘めていた思いを兄に告げようと覚悟を決めてやって来たのに、またも僕が邪魔をした。いつも征兄と二人きりにさせない僕のことが許せない、しかも征兄にどこも似ていない弟……僕なんかいなくてもよかった、ということだった。
その時の彼の発言で僕は彼に嫌われていたことを初めて知った。それだけじゃなくて彼にとっては存在しなくて構わない人間だったということも。
僕は放心状態で自分の部屋に帰り、布団に潜って泣いた。号泣したかった、喚き叫びたかったけど、裕大さんにあれ以上嫌われたくなかったことと征兄に心配かけたくなかったことで声を出さないようにしながら一晩泣いた。
その後左耳の痛みが続いた。でも心の傷が深すぎて叩かれたことや左耳のことは誰にも言わなかった。
そんな時テレビの番組で『因果応報』という言葉と意味を知った。三年近く征兄と裕大さんの時間を妨げたことは叩かれるほどのことだったのだ。
―――この痛みは裕大さんにしてきたことに対する罰なんだ。
そう思った。
それからしばらくして征兄の受験日を迎えた。その時に征兄が裕大さんと大喧嘩して話もしていない状態で、最近裕大さんは家にも来ていないこと、お互い違う高校を選んだことを知った。叩かれた後の僕は裕大さんと顔を合わせたくなくて自室にこもっていたから、裕大さんが来ていないことさえも知らなかったのだ。
征兄に裕大さんのことを聞くのは憚られて、二人が仲直りをしたのかどうかはわからないまま日は過ぎて。
「おまえ、おかしいぞ」
僕の変化に気付いたのは受験を終え、合格通知を貰って家にいる時間が増えていた征兄だった。共働きで普段家にいない両親に代わって物心ついた時から僕の世話は主に征兄がしてくれていたから、僕の変化を見逃さなかったのだろう。
「声をかけても返事しないし、返事ないから肩掴めば怯えた顔するし」
「そうなの? いつも征兄ちゃんが急に肩を掴むから驚いてただけなのに」
そのころ征兄がいきなり肩を掴んだり、腕に触れたり、頭を撫でたりしていたからびっくりすることが多かった。声を掛けてくれていたなんて思いもしなかったのだ。
「征兄ちゃんの声は僕に聞こえないほど小さかったんじゃないの?」
僕の言葉に征兄は顔を顰め、そして仕事から帰ってきた母と何か深刻そうに話しを始めた。二人は話を終えると母は僕の右側に、征兄は左側に立った。
「ねえ、健也?」
「なに? おかあさん」
小声で母に名を呼ばれたのでそちらを向く。ちゃんと向いたのに、母の顔は不正解とばかりに歪んでいた。
「あのね、明日学校休んで病院に行こうね」
苦しそうな顔と声で言われた。
病院? 苦しそうなのはおかあさんで僕はどこも悪くはないのに? 痛かった耳も今は痛くないのにどうして?
疑問だらけだったけれど翌日、母親に付き添われて行った先は耳鼻咽喉科だった。そこでいくつかの検査をして、先生に質問された。
「左の耳は痛かった?」
「うん。でも今は痛くない」
「いつ痛かったの?」
「ずっと前。もう覚えてない」
「いつからこっちの耳が聞こえづらくなった?」
先生に言われて左耳が聞こえていないんだ、と理解した。征兄の声のせいじゃなく、僕の耳のせいでびっくりすることが増えていたことも。
「……わかんない」
「この辺りを叩かれたりとか、大きな音を聞いたりとかはしてない?」
先生が僕の左耳の辺りにそっと手を当てられたら、裕大さんに叩かれた瞬間が蘇った。大きな手が僕の左耳を叩いた時の衝撃。僕のことを邪魔で憎い、と睨み罵る彼。その後の耳と胸の痛み。
彼に叩かれた、と言ったらまた僕は彼に怒られる。今度は反対の耳を叩かれるかもしれない。
―――怖いっ!
真実よりも、治すことよりも恐怖心が勝った。
「……わかんない。覚えてない」
そう答えてそのまま黙り込んだ僕をしばらく先生は見ていたけれど、最終的に機能性難聴か突発性難聴でしょう、と言った。原因は不明で明確な治療法はありません。おそらくストレスも影響していると思われます、とも。
先生が処方してくれた薬を飲んではみたけれど、結局僕の耳は回復することは無かった。
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