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第36話
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互いに一切連絡を取らなくなって二か月が経ったが、年明けは亨と優留のどちらにとっても気が重いものだった。二人は奇しくもそれぞれが新しい生き方を模索して日本の外に出ようとしていた。
亨は門脇の助言に従って鷲見から推薦状を貰ってスカラシップの申請をしたものの、やはりコンクール出場経験が全くないことが懸念されており、結果が出るのが少し遅くなりそうだと言われた。だが亨は諦めず、ネットでいくつかのコンクールの出場要領を検索して宿泊費が補助されたりホストファミリーの紹介を受けられたりと、ある程度経済的な援助があることを知った。ヨーロッパ圏のコンクールならば、チューリッヒに両親が赴任している今ならどうにか出られるのではないか。金銭面でも親に頼ることになってしまうが、単身で渡欧するよりはましかもしれない。
まずはどのコンクールに出るかはっきり目標を定めて、レッスンの回数も増やして出場に備える。鷲見は権威のあるコンクールでせめて本選に残ることができればスカラシップを受けやすくなるだろうと言っていたから、何が何でもそこまで行くしかない。
とことん自分を追い込んでやる。亨は誓った。銀座で優留を見かけた時に受けたショックに比べたら…辛いことなんて幾らもない気さえする。
しかし問題は他にもあった。ピアノを教えることが出来なくなるので別の教師を紹介しなければならないことと、海外での滞在が長期になった時の自宅の管理だ。
考えなければならないことが山積みの亨に比べると、優留は幾分身軽な立場にあった。マンションは賃貸だから出て行けばそれまでだ。留学の資金についても多少ある貯蓄と、少しだが投資をして増やした資産と合わせれば何とかなりそうである。留学先はやはり北米の、いくつかある名門校のどこかに潜り込みたいと思っていた。目標は定まっており、それに向けた勉強は独学だけでなく対策セミナーにも通っている。
しかし上司に退職のことを切り出すのに、流石の優留も少し躊躇いを感じていた。そんな折に、上司の指示で本部会に同席を命じられて出向いた優留は、先般の報告会で指導をしてくれた販売戦略室長と顔を合わせた。室長は優留の顔を見るなり何かを察したのか『浮かない顔だな…』と眉を寄せた。そして金曜の晩に一杯やらないかと誘ってくれた。ここに入社するまでも外資系の企業ばかりを渡り歩いてきた男だ。きっと有益な情報が得られるだろうと考え、優留も誘いを受けた。
室長の経歴とは少々イメージが合わない、本部の近くにある小さな割烹料理店のカウンターで、優留は会社を辞めて留学を考えていることを打ち明けた。室長はかなり驚いたが、そういえば十一月に何か言った気がするな、と苦笑いした。
しかし、留学しさえすれば、学位が取れれば…と漠然とした気持ちで行くのは危険だ、と釘を刺された。これは優留にとっても痛い指摘だった。そこまで具体的に考えていない…そもそも海外に行こうとする動機も亨と距離を置きたい、というやや不純なものである。
「高学歴の人間でも失業やワーキングプアに陥る時代だ。どんな仕事がしたくて勉強するのかはっきりビジョンを持って、学校で学びながら企業にも何らかのアピールをし続けることだな」
「そうですよね…」
「俺だって転職を重ねて来てるんだから辞めるなとは言わん。だが神崎の場合、今はその時期じゃないな。辞表なんていつでも出せる。よく考えろ」
泡の消えたビールの残ったグラスを手にしたまま落ち込んでいる優留を、だが現状に満足しない姿勢を持つのはいいことだ、と室長は励ましてくれた。はじめは口が悪くて苦手だと思ったが、良し悪しをはっきり口にするだけで後腐れはない性格なのだとわかってくると逆に信頼できるようになった。部門外の社員にもこうして気さくに声をかけてくれる。
仕切り直しか…優留は少し落胆しながらも、肝心の部分が抜け落ちていることを教えてくれたこの男に感謝した。
そしてもし全てがクリアになって日本を離れることになったら…優留にはその前にもう一つ、自分の心に決着をつけておきたいことがあった。
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