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初めての反撃
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◇
「志槻、お前大翔となんかあったのか?」
もうすぐ仕事が終わる時間、事務所で発注の最終確認をしていた自分に、原田がそんな言葉を掛けてきた。
「別になにもありませんよ」
細かい数字を目で追い、振り向くことなく答える。努めて平静を装った。
背後で煙草をふかしている原田は休憩中らしい。
「最近、お前らちょっと変だぞ」
暇なのは結構だが、こちらに構わないで欲しかった。
「あんだけ犬みてぇに尻尾振ってお前の後ろちょろちょろしてた大翔が、ここずっとしょぼくれてるだろ。お前がなんかしたんじゃねぇのか?」
「まさか。教育的指導以外、なにもしていませんよ」
ふと脳裏に浮かんだ大翔の顔を強制的に排除し、エンターキーを叩き潰す。今日の仕事はこれで終わりだ。
「では、私は帰ります。お疲れ様でした」
コートを引っ掴み、原田の横をすり抜けて扉に向かう。
「喧嘩してんなら、さっさと仲直りしちまえよ」
気遣うような視線を向けられ、煩わしさに顔をしかめた。
「お先に失礼します」
真摯な忠告に耳を貸すことなく、事務所を後にする。喧嘩だの仲直りだの、そんな次元の話ではない。
エスカレーターを下り、売り場をよぎって外へと向かった。ちょうど、これから出勤なのだろう大翔と出入り口で鉢合わせ、一瞬呼吸が止まった。
「慧さん……」
「お疲れ様です」
もの言いたげな大翔に端的な言葉を返し、その脇をすり抜ける。
「ま、待ってよ」
困惑した声が追ってきた。腕を掴まれ、咄嗟に振り解く。
「あ……ごめん」
パッと手を離した大翔が項垂れる。もうずっと、この男の笑顔を見ていないことに気づいた。
あの日以来、慧は徹底して大翔を避けている。こうして顔を突き合わせても、仕事以外の会話は一切しない。突然自宅を訪ねてくることに関しても、「迷惑だ」とはっきり告げておいた。
最初はそんな自分の拒絶に困惑していた大翔だが、ここ最近はどうも様子が違う。始終気が塞いだような暗い顔をして、目が合うと大翔の方から逸らすのだ。
その変化を心底喜ばしいと思えるようになったら、ようやくこの男との関係は〝他人〟に戻り、全てがなかったことになるのだろう。だが今はまだ、傷ついた顔を見るたび心がひどくささくれ立つ。
「あの、さ……オレ、」
大翔はなにかを言いかけ、口ごもった。近頃ずっとこんな調子で、本当に鬱陶しい。そんな顔をするくらいなら、引き止めなければいいものを。
「私は用事がありますので、これで」
「あ……」
そんな悲しそうな顔をするな。もとより、他人は他人だと割り切るくらいの強さを持て。
そうじゃなきゃ、この先も幾度となく同じような痛みを経験するはめになるのだと、慧は胸中で大翔に教え諭した。
自分がどれほど大翔を傷つけているのか、頭ではしっかり理解している。けれど、それを申し訳なく思うことはなかった。
自分みたいな男に期待した大翔が愚かなのだ。
ズキズキと痛む心臓を無視して、駅へと向かった。
一度家に帰ってシャワーを浴び、スーツから私服に着替えて再び外へ出た。
夕方五時のラッシュアワーに呑まれ、疲弊しながら新宿二丁目で電車を降りる。行きつけのバー『リアン』は駅から徒歩二分、細い路地裏の一角にひっそりと佇むその手の社交場だ。
「いらっしゃーい。あら、慧ちゃんじゃないの」
重厚な見た目に反して軽い木製の扉を押し開けると、カウンターにいた朱(あかり)ママが驚いたように声を掛けてきた。彼のお気に入りである深紅のノースリーブドレスは、カウンターの仄明るい照明を受けてまばゆく輝いている。
「なによあんた、ずいぶん久しぶりじゃない」
「ええ、ここ最近忙しくて遊んでいる暇もなかったんですよ」
悪戯っぽい微笑みにほっと肩の力を抜き、スツールに腰掛けた。
「全然遊びに来ないから、いい人でも出来たんじゃないかって常連さんたちが冷や冷やしてたわよ? もちろん、アタシもね」
こなれたウインクに苦笑を返し、テネシーをロックで頼んだ。
「そんなカッコじゃ、高校生に出してるみたいだわ。背徳感でうずうずしちゃう」
「そういうの、もう聞き飽きましたね」
「あら、もうマンネリ? 飽きっぽいわねぇ」
軽口を叩き合いながら、ざっと店内を眺め回す。手頃な相手はすぐに見つかった。目が合った瞬間、その男はテーブル席を離れてこちらに歩み寄ってくる。
「こんばんは。隣、いいかな?」
年は三十過ぎか、そこらだろう。仕事帰りらしく、きっちりとスーツを着込んだ男は、こちらの了承を得た上で隣に座ってくる。
「初めて見る顔だね。いくつ?」
「二十五です。ここは馴染みの店で」
「そうか。僕はここへ来たのはまだ二度目なんだ」
決して美形ではないが、穏やかな口調と気さくな笑みは合格点に値する。自分よりも厚みのある身体と逞しい腕を不躾にならない程度で観察し、慧は薄く微笑んだ。この男なら楽しませてくれそうだ。
「この子は慧ちゃん。ウチのエースなんだから、下手なことしたらタダじゃ置かないわよ」
「へえ。確かに、きみほど綺麗な子は人気があるだろうね」
「否定はしませんよ」
この店に通い始めて三年ほど経つが、一度も一人で店を後にしたことはない。一人で訪れ、二人で去る。この容姿が他人受けするのは自覚しているし、一夜の相手に困らないのは幸運だと思う。
人間誰しも、溜まるときは溜まる。人肌が恋しいなんて思うことは断じてないが、一人でするよりも他人と身体を重ねる方が数段気持ちいいのは確かだ。
男同士のセックスは、互いを利用し合って行う自慰行為だ。余計な感情も感傷もいらない。そこが一番気に入っていた。
精神的なつながりなど端から求め合う必要はなく、ただ目先の快楽だけを共有し合えばいい。互いに刹那的な充足感を得たあと、再び他人に戻ってすれ違うだけだ。
その手軽さを知ってしまえば、わざわざ特定の相手を作ろうなどとは思えなくなる。他人の感情に振り回されるなんて愚行は、もう二度と犯すものか。
ちらりと、大翔の顔が脳裏に浮かんだが、度数の強いアルコールで強引に打ち消した。
きっともう、大翔は自分のことなど好きではない。
先ほどの短いやり取りで、大翔の中の自分は、ことさら排他主義で人間不信の情けない男という認識にすり替わったことだろう。こんな男を好きになったなんて馬鹿らしい、下らない勘違いだったと、そろそろ気づく頃だ。
このまま嫌いになってくれたらいい。大翔の方から去ってくれたら、これ以上は望むべくもない。
「……そろそろ、出ようか」
二時間ほど中身のない会話をし、グラスを四杯空けたところで、相手からそう切り出してきた。好都合と頷き、席を立つ。
「気をつけてね慧ちゃん。また近いうちに顔出しなさいよー」
「ええ。ごちそうさまでした」
気の置けない店主に微笑み返し、知り合ったばかりの男と並んで店を出た。相手の名前は一度聞いたが、とっくに忘却している。どうせ一晩も一緒にいないのだから問題ないだろう。
「こっちに僕がよく使ってるレンタルルームがあるんだ。そこでいい?」
「構いません」
場所にこだわりはないと伝えると、男は自然に自分の腕を取った。こちらを見もせず、早足で歩き続ける。
雲行きが怪しいと感じ始めたのは、細い路地のさらに奥へと進んでいる時だった。
「あの、どこへ向かっているんです?」
不気味なほど暗い路地道で、慧は不意に立ち止まる。大人二人がギリギリ並んで通れるくらいの細い道だ。いっそ道というより、建物の間といった方が正しい。
こんな所を通って、どこへ行くというのだろうか。
半歩先で立ち止まった男が、ゆっくりとこちらを振り返る。ぎらつく瞳と目が合った瞬間、背筋が震えた。
この男は、ヤバイ。
本能的にそう直感し、思わず後ずさる。だがそれより早く、男の腕が自分の肩を捉えて建物の壁に押さえつけてきた。
「っ……」
退路がない。ひとけもない。この状況はどう考えても危険だ。
「ちょっと気づくの、遅かったなあ?」
男は先ほどまでの穏健さが嘘だったかのように、低い声で嗤った。男の豹変振りに内心ひどく動揺したが、ここで目を逸らしては相手の思うつぼだ。
「放してください」
気丈を装って真っ向から男を睨みつける。それが却って男の嗜虐心に火をつけたらしい。クッと喉の奥で嗤った男が、唐突に顔を近づけてくる。
ゾッとして、反射的に顔を背けた。こんな男とキスをするなんて死んでもごめんだ。
「ああ、キスは嫌いなんだ? じゃあ後でたっぷりしてやるよ」
耳に囁くような吐息を吹きかけられ、嫌悪感が全身を駆け巡った。そのまま匂いを嗅がれ、奥歯が鳴り出す。
「お前みたいに綺麗な男とできるなんてな。……ほら、考えただけでもうこんなだ」
含み笑いをながら昂ぶった下半身を太腿に擦りつけられた瞬間、恐怖心はピークに達した。
「は、放せ……っ!」
「なんでだよ? お前だってシてぇんだろ? 俺のデカマラでぶち抜かれてぇんだろが」
「違う!」
限界だった。あらん限りの声を張り上げ、身を捩る。だが、先ほど逞しいと思った腕は今や呪縛のように自分を押さえつけていて、身動き一つできなかった。
こんなところで、こんな奴にされるのは絶対に嫌だ。けれどもう、どうすることもできない。
(クソ……なんで、こんな)
こんなことになるくらいなら、家で大人しく本を読んでいればよかった。
半ば諦めのような後悔が浮かび、きつく目を閉じた。身体から力が抜けていく。
どれだけ後悔しても、もう遅すぎる。完全に自分の落ち度だ。こんな男にまんまと引っかかるなんて。
「お。やっとその気になったか?」
男は上擦った声で囁き、太腿に自身を強く擦りつけてくる。このまま達したら解放してもらえないだろか、などと考え、ひたすら恐怖心を誤魔化した。
ただ太腿に擦りつけるだけでは我慢できなくなったのだろう。男は片手で自分を抑えつつ、もう一方の手で自らのズボンをまさぐり、ソレを取り出そうと躍起になっている。
ザァっと音を立てて、全身の血の気が引いた。冗談じゃない。
慧は渾身の力を込めて男を突き飛ばす。よろけた男の腕から逃れ、一目散に駆け出した。
「おいっ!」
怒声が鼓膜を揺らし、心臓が激しく脈打った。男が追って来ているのかどうかを確かめる余裕すらない。
だが背後の物音からして、追って来ている。
(どうする……どうすれば……)
もつれる足を叱咤し、走り続けた。だがいかんせん、道が暗すぎる。どこへ向かえばひとけのある場所に出られるのか、見当もつかなかった。
足音がすぐ背後まで迫る。もうダメだと感じた直後、脇道から伸びてきた腕が自分を捉えた。
「っ……!」
問答無用で路地に引き込まれ、口を塞がれる。危うくパニックに陥るところだった。
「シッ! 黙ってて」
背後から自分を抱き包むようにした誰かが、鋭い声で命じてくる。自分の目の前を、先ほどの男が駆け足で過ぎていった。
「……行ったみたいだね」
口を覆っていた手のひらが離れ、浅い呼吸を繰り返す。
「大丈夫?」
気遣わしげな声に頷くこともできなかった。まだ身体が震えている。
「……大丈夫だよ」
再び背後から優しく抱き締められ、ぎくりと身体が強張った。ここは新宿二丁目だ。その手の男はそこら中にいる。
慌てて身を捩ると、その腕はあっさりと自分を解放した。拍子抜けしつつ振り向く。
一瞬、思考が完全停止した。
「ど、うして……」
「ごめん」
恐縮した面持ちで、大翔がこちらを見ていた。その見慣れた顔に安堵することなど、できるはずもない。
どうして、大翔がここにいるのか。この界隈はストレートの男が足を踏み入れる場所ではない。
「まさか……私をつけてきたんですか」
信じられない思いで問うと、大翔は気まずそうに目を伏せた。
その表情を見て、気づく。全て悟られたのだと。自分がゲイであることも、この場所にいる理由も。
「っ……」
重苦しい沈黙に耐えかねて、慧は大翔から顔を背けた。今すぐにでもこの場を逃げ去りたい衝動に駆られる。
「慧さん、オレ……」
聞きたくない。なにも、聞きたくない。きつく唇を噛み締めて首を振ると、大翔は再び口を閉ざした。
唐突に携帯の着信音が鳴り響く。空気を読めない明るいメロディに苛立ち、顔をしかめた。大翔がこちらを気にしながら携帯を取り出す。
「……もしもし。ああ、叔父さん。うん、ごめん……今日はちょっと、具合悪くてさ。うん、ほんとごめん」
どうやらバイトをすっぽかしてきたらしい。本当に無責任な奴だと内心吐き捨て、大翔を放置して歩き出した。
「あ、ごめんっ。もう切るね。待ってよ、慧さん!」
追い縋る声など聞きたくもない。この先に先ほどの男が待ち構えている可能性はあるが、そんなことはどうでも良かった。
「待ってってば!」
「っ放せ!」
掴まれた腕を問答無用で振り払う。大翔はふと息を詰め、痛みに耐えるような顔でこちらを見つめてきた。
「なんで逃げるの……? そんなにオレのこと嫌い?」
泣き出しそうな視線が辛い。そんな顔をさせたいわけではないのに。
好きか嫌いか、そんな二択を迫らないで欲しい。どっちでもない。どうでもいい。それが本音だ。
(本当にそうか……?)
混乱する胸中に自問を投げ掛け、慧は押し黙る。
「オレ、この前のこと、ちょっと後悔してるんだ。あんなこと、言わなきゃ良かったって」
大翔の言葉に、ピシリと心が割れた。
(後、悔……か)
それはそうだろう。男相手にあんな馬鹿げた告白をしただなんて、大翔にとっては最悪の失態だ。
「こんな風に嫌われるくらいなら、言わなきゃ良かった。慧さんに避けられると、どうやって息したらいいのか分かんなくなる」
涙交じりの声に、慧は目を見張った。思わず大翔を振り仰ぐが、大翔は顔を見られたくないのか、身体を背けて洟を啜っている。
「……さっきの人って、恋人?」
「え? いや、そういう、わけでは……」
掠れた問いに瞠目し、口ごもった。恋人ではない。だがそう断言すれば、暗に仄めかすことになる。気が向けば誰とでも身体を重ねるのだと。
「そっか……でも、オレとは嫌なんだ?」
大翔は時々、恐ろしく鋭い。今の返答で何もかもを見抜いたようだ。
「どうして? オレがゲイじゃないから?」
「そ、んなこと……」
痛々しい瞳が真っ直ぐ自分を射抜く。気圧されて身を引けば、大翔も一歩こちらへ近づいてきた。
「オレ、慧さんに避けられてから、ずっと考えてたんだ。なんでだろうって。でも、すぐに分かった。同じ男に『好き』だなんて言われたら、普通は気持ち悪いって。多分、慧さんもきっとそう思ったんだって」
だがその理屈は、ゲイであることを悟られた段階で適用不可能だ。
「正直に教えてよ。オレのこと、どう思ってる? そんなに嫌い?」
「秋、村君……っ」
下がれば下がるほど、大翔は追い詰めるようにこちらへと歩み寄ってくる。
「オレのこと、気持ち悪いって思った?」
傷つき果てた瞳に射竦められ、息を呑んだ。反射的に首を横に振る。
その質問にだけは、どうあっても正直に答えてやらなければならない気がした。
気持ち悪い、なんて。
「そんなこと、思うわけないでしょう……!」
だってそれは、かつて自分が最も傷ついた言葉で。そんな感情を大翔相手に抱いてしまったら、遠まわしに自らを否定するようなものだ。
「君の方こそ、どうなんですか」
自分の性癖を、大翔は知ってしまった。
ストレートの男が、自分の性癖を知ったときの反応は分かりきっている。どうせ、大翔だって同じだ。
「こんな場所で男漁りをして、厄介な相手に強姦されかかった私のことを、本心では気持ち悪いと思っているんでしょう」
「馬鹿じゃないの」
冷え冷えとした声に、心臓が止まった。きつい力で自分の両肩を掴み、大翔が正面からこちらを睨みつけてくる。
いつだって安穏とした笑みを浮かべていた大翔が、ここまで怒った顔をするなんて本当に予想外だった。
「卑屈なのも大概にしなよ。そうやって自分自身を卑下してるから、ひとの気持ちも信じられないんだろっ!」
「あき――っ!」
動揺したままうっかり開きかけた口を、大翔が塞いでくる。この男の行動はいつだって予測不能だ。
「っ……」
軽く唇を食まれ、ビクリと身体が強張った。即物的な快楽を与えるキスではなく、こちらの気持ちを推し量るような軽い口づけを数度繰り返し、そっと大翔が顔を離す。
「……今のは? 嫌だった?」
至近距離から囁くように問われ、視線を逸らした。
嫌ではなかったなんて、言えるものか。薄い頬の皮膚が焼け付くように熱を持つ。自らの鼓動を耳の奥で聞き、呼吸が乱れた。
「あのさ、信じてくんないかもしれないけど、オレは本気だよ……?」
ふと肩を掴んでいた大翔の手が離れる。怖々と視線を上向ければ、ぞくりとするほど真剣な瞳と目が合った。
「本気で、慧さんが好きなんだよ。確かに、慧さんが新宿二丁目で電車を降りたときはびっくりしたけどさ。でも、気持ち悪いなんてこれっぽっちも思わなかった」
誠実な言葉に思わず息を呑むと、大翔はそうっと自分の頬を撫でてくる。慈しむような視線を受け、慧はひどく混乱した。
どうして、そんな目で自分を見るのだろう。同情でも嫌悪でもなく、ただ愛おしそうな目で。
自分に言い寄ってくる人間は、男女問わず多い。だが、こんな視線を向けられたことなどかつて一度もなかった。大概の人間は露骨に品定めの視線を向けてくるばかりだ。そしてすぐに、見た目の綺麗さに中身が見合っていないのだと気づいて去っていく。
志槻慧は綺麗な男だが、中身はどこまでも脆弱で醜悪なのだと。そんな失望をして、誰も彼もが離れていく。勝手に期待して、勝手に失望し、最終的には自分一人が取り残されるのだ。
そんなことには、もうとっくに慣れた。他人は所詮他人だ。本当の意味で分かり合えることなんてなにもない。
だから、分からなくて当然なのだ。大翔が今、自分にどれほどの想いを抱いているかなんて。分からなくて、当然なのだ。
いたたまれないほど優しい視線に思わず俯く。この期に及んでまだ、大翔の気持ちを信じきれない自分が憎らしかった。
「さっきの人は、ほんとに恋人じゃないんだよね?」
「ち、違う……。そんなものは、いない。この前も……そう言っただろう」
小声で否定を返すと、空気が和らいだ。
「そっか……じゃあ、助けて良かったんだね」
安堵したような声に目を向ける。久しぶりに大翔の笑顔を見た。綻ぶような、それでいてどこか切なげな笑みに、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。
「ほんとのこと言うとさ、さっき店から二人で出てきたとき、心臓が止まるかと思ったんだよ。恋人だったらどうしようって。あのまま二人でホテルとか入られたら、オレ、立ち直れなかったと思う」
「……」
実際にはそれに近しいことをしかけた。そんなことは大翔だって気づいているのだろう。
「慧さん、お願いがあります」
大翔が真っ直ぐに自分を見た。聞いたこともなかったような丁寧な言葉遣いに目を見張った直後、大翔が深々と頭を垂れる。
「オレと、付き合ってください」
たっぷり一、二分は動けなかった。思考回路と感情回路が同時にショートしている。
ようやく我に返っても、大翔は未だ深々と頭を下げたままで、掛ける言葉一つ見つけられない。
「っ……」
なにか、言わなければ。上手い口実を見繕って断らなければ。恋愛なんて、自分には絶対にできないことなのだから。
「私なんかと付き合っても、メリットなんて一つもありませんよ……」
カラカラに乾いた喉から声を絞り出す。大翔がゆっくりと顔を上げた。一見無表情にすら見えるほど、真剣な顔つきだった。
「メリットとか、そんなのどうでもいいよ。ただ、慧さんの傍にいたいんだ」
きっぱりとした返答に顔が歪む。
ただ、傍にいたい。
それはかつて朋久相手に自分が抱いた、たった一つの願いではなかっただろうか。
「……物好きにも程がある」
ポツリとした呟きに自嘲が滲んだ。こんな自分を好きになるだなんて、物好きを通り越して異常だ。
きっとそのうち、大翔も思い知る。志槻慧という男が、いかに粗悪なのか。誰のことも信じられない人間と付き合うということが、どれほど不毛なことなのか。
嫌というほど思い知って、大翔自ら別れを切り出してくるに違いない。
この世に絶対の感情などないと、他でもない大翔自身が思い知ることになる。
そうなったとき初めて、心の底から後悔すればいい。
「……いいでしょう。勝手にしなさい」
胸中で悪辣な打算をしながら、大翔に目をくれた。
「ほんと……? ほんとにっ?」
途端、大翔はパッと瞳を輝かせる。そう言えばこんな顔も久々だ。忘れかけていた暑苦しさに辟易しつつ、あしらうように頷く。
「やったっ!」
飛び上がって喜ぶ大翔に呆れつつ、自らに釘を刺した。
(なにがあっても、大翔に気を許しすぎるな)
いずれ必ずいなくなることを、肝に銘じろ。
(もう二度と、他人の感情に振り回されて傷つく必要はないんだ)
〝裏切り〟というのは、他人を信じた者だけに与えられる罰だ。信じること自体が罪だから、罰を受けるに違いない。
だから自分は、二度とそんな罪を犯さないと誓った。他人など、信じてなるものか。
たった一度の失恋で、臆病になりすぎている。そんなことは分かっているが、どうすることもできないのだ。
心が弱いと自覚しているからこそ、自己防衛を怠れない。傷つく覚悟をするよりも、傷つかない策を講じるのがいつの間にか癖になっている。
「慧さん、ありがと。オレ、もうダメかと思ってた」
大きな瞳を心なしか潤ませながら、大翔がはにかんだ。喜悦に満ちた顔を見ると、ほんの少しばかり胸が痛む。
自分は大翔を試そうとしているのだ。どれくらい持つのか。どの程度の想いなのか。冷酷に試そうとしている。全ては、自らを守らんがためだ。
こんな卑怯な内奥を今すぐさらけ出せば、大翔だって尻尾を巻いて逃げ出すに違いない。
ふ、と薄く微笑み、大翔を見つめる。たったそれだけで心底嬉しそうな顔をする大翔を、胸中で密かに憐れんだ。
こんな自分を本気で好きになったのだとしたら、可哀想な奴だ。
駅へと向かう道すがら、さりげなく繋がれた指先から大翔の体温が伝わってくる。柔らかで温かいそれとは対照的に、自分の指先はひどく冷たい。
まるで互いの心を暗示するかのような対比に、ひっそりと唇を噛んだ。大翔はきっと、まだ気づかない。
終わりを予想しない大翔の甘さは、この現実世界では決して通用しないのだということを。
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