アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
01 綿菓子くん -2
-
「どう?ちょっとは慣れてきた?」
「はい、おかげさまでなんとか」
「そっか。わかんないことがあったら何でも聞いてね」
内容的に、彼がNOGIの新しいバイトであることはほぼ間違いない。
「ありがとうございます」
彼の声は、透き通った落ち着きのある声だった。どんな子だろう。気になって仕方がない。そもそもこのカフェがバイトの募集をかけていたことにも驚いた。美咲からも店主の野木さんからも、そんな話は聞いたことがなかったからだ。
「あ、ねえなっちゃん、ちょっとカウンター来てくれる?...あっ、エプロン付けてからで大丈夫だよ」
やっぱり、間違いなく美咲は彼のことを“なっちゃん”と呼んでいた。
美咲はきっと彼を俺に会わせる気だろう。悪意はないとしても盗み聞きしていた手前バツが悪いので、俺は何事もなかったかのように小説に目線を戻し、知らない風を装った。
「ごめん青葉。ちょっといい?」
間も無く、美咲が声をかけてきた。
「ん?いいよ、どした?」
小説の世界にいました感を醸し出しながら、俺は顔を上げた。
「青葉はまだ会ってなかったよね。新しいバイトの子」
「バイト?いや、会ってないね」
「じゃあ、紹介するね」
美咲がにっこりと笑いながら、嬉しそうに言った。彼はバックヤードでエプロンをつけているところだろう。美咲は首を伸ばしてバックヤードを覗きながら、彼が出てくるのを待っていた。
間も無く、黒いエプロンを付けた長身の男が身を屈めながらバックヤードから現れた。
(いやいやいやでかくね?)
180センチは優に超えているだろう。想像以上の身長の高さに驚いて目を瞬いた。
「なっちゃん、紹介するね。この人、私の高校時代からの友達の千坂青葉(ちさか あおば)。うちの常連さんだよ」
美咲の身長は160センチもない。隣に並んだ巨人、“なっちゃん”を見上げながら話す美咲は、まるで小人のようだ。
「ちさか、あおばさん....」
呟くように、ゆっくりと、巨人くんは俺の名前を口にした。そして一旦飲み込むように口をつぐんでから、改めて俺に向き直った。
「はじめまして、チサカさん」
「えっ...ああ、はじめまして」
巨人くんが小さく会釈しながら挨拶してきた。俺と目が合うと、にこりと笑顔を浮かべた。丸メガネに、ゆるくパーマのかかったマッシュヘア。おしゃれ感漂ういで立ちだ。目鼻立ちはどちらかというと薄顔で、どこかふわふわした、柔らかい雰囲気を纏っていた。
「で、この子が新しいバイトの夏原藍(なつはら あい)くん。大学生さんだよ。バイト始めたのはちょうど1週間くらい前だったかな?」
「そうです」
なつはらあい。
ナツハラアイ。
その名前を記憶するために、頭の中で復唱した。
「あー、それで“なっちゃん”か」
「そー!可愛いでしょ?本当はあいちゃんって呼びたかったんだけどね、それだけはやめてくださいって断られちゃった」
「そりゃそうだろ」
紛らわしいあだ名をつけないでほしい。というか、なによりも巨人くんがかわいそうだ。はにかむように笑う彼の表情を見ながら、なっちゃんですら恥ずかしいのだろうなと悟った。
「美咲お前さあ、ネーミングセンスなさすぎだろ。せめて夏くんぐらいにしてやれよ。なぁ?」
巨人くんに投げかけると、眉尻を下げながら、ふわ...、とまたもや柔らかい笑顔を浮かべた。なんなんだこのふわふわ感。綿菓子みたいな奴だ。
「あいちゃんをお断りしちゃったので、さすがに2度も断れないです」
「聞いたか美咲。お前下手したらパワハラ上司だぞ」
「えっ、嘘、ごめん、そんなに嫌だった!?パワハラじゃないからねっ、今日でバイト辞めますとか言わないでぇっ」
そんなこと言いませんよ、と巨人くん改め、綿菓子くんは物腰柔らかに美咲に言った。
「ぜひ、なっちゃんでお願いします」
美咲は彼を見上げて目を瞬かせたあと、ゆっくりと、俺の方を見た。それも、気持ち悪いぐらいに目を輝かせて。
ねえ、今の、聞いた?
今にもそんな声が聞こえてきそうだった。俺はうんうん、と深く頷いて適当に同調してやった。
「美咲」
「はい?」
「お客さん待たせんなよ」
テーブル席の客が帰り支度をする様子が見えたので、美咲に知らせてやった。気付いた美咲がハッとして、慌ててレジへ向かう。取り残された綿菓子くんも、反射的に美咲を追いかけようとしていたのか、爪先はレジの方を向いている。だが目の前にいる俺の方に一瞬目線を走らせると、思い直したように俺の方に向き直った。
綿菓子くん、すごく真面目。
仕事も早く覚えたいだろうに、美咲の友人で店の常連客でもある俺に気を遣って、この場に残ったのだろう。俺はカウンターに身を乗り出して、綿菓子くんに話しかけた。
「なあ」
「はっ、はい」
少し緊張した面持ちで、綿菓子くんは返事をした。人見知りなのか?美咲と話しているところをみると、そんな感じもしなかったが。
「俺はなっちゃんなんて呼ばないから、安心して」
そう言うと、綿菓子くんは困ったように笑って、鼻先をかいた。
「ちょっと、慣れるまで照れ臭くて」
「ほんとに嫌なら俺から言ってやるけど」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。あいちゃんでなければ」
綿菓子くんは丸メガネの位置を直してから、遠慮がちに続けて話した。
「下の名前、あんまり好きじゃないんです」
「女っぽいから?」
はい、と綿菓子くんは肩を竦めた。
その点は、綿菓子くんに心から共感できる。俺の名前の青葉なんて、いかにも春先に生まれた女の子に付けられそうな名前なんだから。
「ちなみにさ、あいってどんな字書くの?」
まさか“愛”じゃないよな。もしそうだとしたらかなりコンプレックスを抱きながらの人生を歩んできただろうなと、同情してしまう。
「藍染めの、“藍”です」
「一文字?」
「そうです」
頷いた綿菓子くんの落ち着いた風貌を見ながら、俺は妙に納得した。
どうやら、俺の心配は無用だったようだ。
「その名の通りに育って、ご両親はきっと君のことを誇らしく思ってるだろうね」
「え?」
「バイトが終わったら、“藍”の名前の意味、調べてみるといいよ」
はぁ、と曖昧に頷く綿菓子くんの頭上には、無数のクエスチョンマークが浮かんで見えた。
「土曜のこの時間にバイト入れてんの?」
早々に話題を変えてやると、綿菓子くんは我に返って、はい、と頷いた。
「そっか。じゃあまた顔合わすと思う。俺ここに来るのいつも土曜日だから」
「はい、知っています」
「え?」
「あっ...すいません、美咲さんがそう話していたので」
綿菓子くんは少し顔を赤くしながら、取り繕うように早口で答えた。
「ああ、そっか、そういうことね」
俺は特に気に留めることもなく納得して、カップに残っていたコーヒーを飲み切った。腕時計で時間を確認すると、来店してから1時間が経っていた。美咲が戻ってきたら、そのまま店を出ることにしよう。
「もう、出られますか?」
「うん。美咲が戻ったら、そのまま会計してもらおうかな」
レジの方をみると、もうすぐ会計が終わりそうな雰囲気だ。
「あの」
「ん?」
「...また、来てください。まだ、できる仕事は少ないですけど...。よろしくお願いします」
律儀にも、綿菓子くんは深々とお辞儀をしてきた。これは確かに、美咲が彼を可愛がるのにも納得がいく。
「うん、こちらこそよろしく。バイト、がんばってな」
「はい...っ」
嬉しかったのか、綿菓子くんの目が少し見開いて、肌の血色が良くなった気がした。
レジを終えた美咲が戻って来て、会計する旨を伝えた。
「今日も美味かった。ありがとう」
「こっちこそ、いつもありがと」
俺は美咲に硬貨を手渡して、席を立った。
「じゃ、また。野木さんによろしく伝えといて」
「りょーかい。またね」
「ありがとうございましたっ」
背を向けて出口に向かって歩く俺に、今日一番ハキハキとした声で、綿菓子くんが叫んだ。
俺は一度足を止めて、後ろを振り返った。
綿菓子くんと目があった。
丸メガネの奥で、綿菓子くんの目が輝いているように見えたが、ただのメガネの反射かもしれない。俺は綿菓子くんに笑顔で応えてから、2人に手を振って、店を後にした。
これが俺にとって、この綿菓子のような男、夏原藍との最初の出会いだった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
3 / 8