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86
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診察しながら 努めて冷静になろうと 心掛け 能面のように 心身共に 鎮めるようにした。
馴染みの 看護師や事務の子達は 無表情の僕が 別人に見えたかもしれない。
夜 クリニックの火の元の点検を終えて 重い気持ちで 2階に行く。まさか 顔出しせずに帰る訳にも いかない。クリニックの鍵も置きに帰らねばならなかった。
2階の玄関を開けると 母一人だった。
ダイニングの椅子に腰を掛けて 消沈した様子だ。
ただいま。と声をかけると
「ああ 真弓。
おかえりなさい。ご苦労様。
今 冴子は 友達とご飯を食べに行くって 出掛けたわ。あんたご飯は?」
「いや 要らない。母さんは何食べるの?」
「あんまり ね。
食欲も無いわ。冴子はご飯の後 飲んでくるらしくて 遅くなるって。」
「じゃあ 母さん。ウチに来ないか?」
何となく このまま母を一人にしておけないと思った。母が一人で精神的に弱っているような時 姉と一緒にしておけなかった。父が居れば 姉も 多少口を慎むかもしれないが 母一人なら それこそ 母は 潰されてしまいそうに思えたから。
「ウチでご飯を食べればいいよ。あっちの家 まだ来たことないだろう?千春が居ると嫌か?僕が正行と住んでいた頃のベッドも余分にあるし。部屋も充分あるし。
姉さんには 電話しておけば良いだろう?この家の あれこれを知らないわけじゃあ ないし。姉さんだってまごつかないだろう?」
姉には 無理矢理 連絡させた。
友達と一緒だからなのか 姉は 友達の前だからつくろっているのか 何も言わなかった。鍵も姉は持っていたらしい。
S市のマンションに着くまでの間、母も僕も無言だった。千春は 母が行くことについて連絡した時は 何も言わなかった。
昼間 僕が ことのあらましを メールしておいた。千春も かねてから 僕が姉について 話しているから 多少理解しているかもしれない。
マンションのエレベーターで玄関前に着いて ドアを開けると 千春が天真爛漫そのものの顔で 廊下を走ってきた。
あー 癒される。
千春の笑顔 千春の存在。
「おかえりなさい。真弓さん。
いらっしゃいませ。どうぞ どうぞ。遠慮しないでください。」
そういって 千春は 母の荷物を自然に 受け取り 手を取らんばかりに 先に立って 案内していく。
リビングは充分温まっていて テーブルには 3人分の食卓が用意されていた。
「千春さん。突然お邪魔しちゃってごめんなさいね。ご飯の用意までさせちゃって。あなたも 昼間お勤めしているのに。ごめんなさいね。他人が来て気づまりでしょ?疲れているのに ごめんね」
僕が口を挟もうとすると
千春が 不思議そうに
「なに 言ってるんすか?
俺 大歓迎っすよ。だって 今まで 来て欲しいなってずっとずっと 思ってたんスからっ。
少し遠いからかな?嫌なのかなって。ずっとずっと。
ご飯の支度だって いつもとおんなじ っすよ。
一人分増えたって どうってことないっす。
俺がご飯の支度したり 真弓さんがしてくれたり。早く帰った人が ご飯の支度してます。今日は たまたま 俺が早かったんスよ。掃除は毎日じゃないけど。風呂とトイレは毎日してますよ。うん。
俺 それに 怪我して 入院したときは 美味しいモン 差し入れして貰って。本当にありがとうございました。
普段も ご飯を食べに行って。
一度 俺のご飯も食べて欲しいなって。思ってたんスよ。
疲れてるなら先にお風呂入りますか?
それとも 寒いから 寝しなに 入りますか?
えっ? おかあ さ ん 泣いて?」
母は 千春の飾らない言葉遣いと 本心からの 素直な言葉に 緊張がゆるんだのか 泣いてしまった。ありがとう ありがとう 言いながら。
千春は駆け寄って 手近のティッシュを取り 母のからだを、包むように 肩を抱いて支えるようにして ソファに座らせた。
「泣かないで ください。
これから 俺の料理食べてもらおうと思ってるんスよ。
口に合うかどうか 俺 知りたくて。
真弓さんが好きな味もっと教えてもらいたいから。ねっ。」
僕は 母に対する千春の芯からの優しさが 嬉しかった。
飾り気のない シンプルな 言葉に 母も 理解してくれてる。と思った。
「母さん ご飯食べよう。洗面所こっちだよ。手洗い うがいして。」
そして3人で夕飯を食べた。
「千春さん この魚美味しいわね。なあにこれ?」
「これ安いアブラカレイです。ニンニクを薄く塗ってトマト乗せて塩コショウだけ。オーブンで焼いて後はとろけるチーズだけなんスよ。」
「あらっ?この味噌。」
「分かりました?長野の醸造所からね。前に飲んだとき 美味しかったから。取り寄せたんです。うまいっすよね。この味噌。それにちっとも高くない値段だし。」
「ねぇ この味噌漬けの大根もきゅうりも美味しいわね。しょっぱくなくて。甘味がほんのりあって。」
「あーこれね。前に誰かに貰ったら美味しくて。群馬の味噌漬け屋さんのです。じゃあ おんなじ味噌漬けのこの生姜もうまいっすよ。ほんのり甘いのに生姜がピリッとして。おにぎりにもね この味噌漬け刻んで入れるとね うまいっすよ。」
「このタンドリーチキン。柔らかくて美味しいわね。」
「これね 昨日の残り物。むね肉なんスよ。前の晩からね ヨーグルトに浸けておくんです。パサパサにならないし 柔らかくなるし。うまい 安い 焼くだけ簡単なんスよ。」
「こうやってお野菜蒸すと 甘くなるし 量も食べられて良いわね。キャベツも美味しいわ。ゴマドレッシングも合うわね。」
「ゴマドレッシングは買った奴なんです。」
「人に作ってもらうって贅沢ね。どれも本当に美味しいわ。お料理上手だわ」
「褒めても 何にも出ないっすよ。」
そう言って ニカッとイタズラっぽく笑いながら
「でもね 真弓さんはね もっと上手なんスよ。絶妙な塩加減で。お芋の 煮っころがしなんて本当に美味しいっす。おふくろの味なんスね。」
「そうなの?でも 真弓がこんなに 嬉しそうに食事してるの初めて見たわ。千春さんと、一緒だとこんな顔もするのね。」
「いやぁ 同じだよ。
でも 千春が料理上手なことは本当だよ。千春は 洗濯もきちんとするし 布団もサンルームで干すし 掃除もこまめにする。何より僕をいついかなるときも 一番に考えてくれるんだ。
千春はね 仕事先でも お客さんの信頼が厚いんだ。昇進してね 今係長で まとめ役なんだ。
正行も高田も 千春のことは手放しで褒めてるよ。
素直だからね。」
「本当に 千春さんは 良い子。あ もう 子供じゃないわね。でも 私からみたら 真弓の大切な人だから私の子供だわ。」
えっ?という顔で千春が嬉しそうに笑った。
僕は千春にも半分聞かせるつもりで 昼間のことを話し始めた。
「母さん。
昼間の話だけどね。
父さんが帰るまでは 色々相槌すら打っちゃ駄目だよ。頷いただけで 母さんの居ない処で 母さんが承諾したからって 話の運びになっちゃうから。
それから 3階が別メーターで僕が光熱費支払っていることは言わなくて良いよ。
固定資産税についても 占有面積から僕が何割か渡していることも言わなくて良いから。
改めて聞くけど 母さんは 3階に僕が居るのは 反対かい?家賃収入が有った方が将来安定するから その方が良いかい?」
「そうねぇ。
オフレコとして 聞いて頂戴ね。」
山手家の話だと思ってか 千春が席を外そうとした。
千春に向かって
「千春さんも座ってね。
あなたも 山手の人間なんだから。
お父さんとも 前から話していたことを話すわね。
でも今も お父さんが同じ考えかどうか分からないけどね。
冴子はね。もうずいぶん前から あのクリニックの土地建物の相続の話をチラチラしていたの。
まぁ 3人も子供が居るから。
一番上の子には 今冴子達が住んでいる家をあげるらしいの。
二番目の子には 静岡だか山梨だかに土地を買ってあるらしいの。それを売るなり そこに建物を建てるなり好きにすれば良いと考えているらしいわ。
三番目は女の子だけど。嫁入りするときに 持たせるつもりなのが あの横浜のクリニックの土地か何らかの権利か らしいのよ。まぁ お父さんや私が死んだら真弓か冴子が相続するから。って考えているみたい。
お父さんは 孫は可愛いけど 冴子は資産家に嫁いだから お金には困らないだろうって思っている。
それで 何年か前に遺言書を作ったのよ。
千春さん こんな言い方しか出来なくてごめんね。
真弓に 何年も彼女が居ない ってことは何か有るんだろうって 薄々 判っていたみたいね。
医者だから あのクリニックを引き続きやっていけば 良いって思っているみたい。開業医特有の 新規の地元の患者獲得の苦労はしなくて良いからって。
でも 真弓を縛り付けたくないから 遺言書には 真弓が結婚しないことを考えて 継ぐならそれもよし。継がないなら クリニックの売り上げは それに従事している者にって。
それにね あの遺言書には何も書かれていないけど。
あのクリニックのすぐ近くに 学習塾があるの知ってる?駅寄りに。〇〇学習塾。あのビル 私の名義なのよ。賃貸ビル。
私の父親が亡くなって 相続放棄の判を押した時 私だけ放棄したから きょうだいが皆 幾らかずつ 私に色々帳簿に載らないものをくれたの。
指輪だったり 何かの骨董の壺だったり 誰か有名な書簡だったり 価値の有る絵画だったり。
そして お父さんと相談して 知り合いの人を介して 骨董品とか そういうものを欲しいって人に売ったの。
表にはならない取引よ。
それが 結構なお金になって あの学習塾のあるビルごとね。一応ローンって形になっているけど。あそこは駅前って程ではないけど商店街の一画だし店子には困らないみたい。すぐ近くの不動産屋さんに委せてあるの。冴子は知らないのよ。
だから クリニックの3階を人に貸しても貸さなくても 同じ。どちらでも良いのよ。むしろ あのクリニックの不動産は無くても困らないのよ。もちろん価値もそれなりだし 長年住んで愛着もあるけど。
冴子が どうしても欲しいなら 私は良いのよ。争いごとは嫌だから。
だからね 真弓。
あんたは 好きなように 生きて良いのよ。お母さん達は 冴子に頼ろうとは思わない。
冴子に言わないけどね。
お父さんもそうだと思う。
真弓は長年冴子に押さえつけられて 梓のことをずっと足枷にして生きてきた。梓を気にしながら生きてきた。
最初は 彼女を連れてこないのは 梓を思っているのかな。仕事が忙しいからかな。冴子や 私達が 嫌なのか。とか思っていたけど。
お父さんは 女には興味がないのかな?って。
それで お父さんと2人で 真弓が そうなら好きにさせてあげようって。
だって女の子が好きになれないなら 仕方ないって思うようにしたの。
だから 真弓。
あなたが クリニックを継ぐも良し。
継がないのも良し。
あなたが あそこに住むならクリニックの不動産は手離さない。
クリニックを継いで あの3階に住むなら 究極学習塾のビルを冴子に相続させても構わない。
最後まで学習塾のビルのことは言わないけどね。
遺言書には冴子には不動産の相続を明言していないけど。
どちらにしても 遺言書があるから 裁判になったら 困るけど 冴子だって遺言書に従ってくれると思うのよ。
うん。
千春さん。揉め事の話ばかりでごめんね。芯は悪い人間ではないと思うのよ冴子も。
でも 自分でこうと思ったら 相手がうんというまで 自分に従わせたいのよ。
だから すぐ反論しても駄目なの。
勝手に決めてしまえば 良いと思うのよ。途中だと 自分の思った方向に向かわせようとするから。従わせようと思うから。」
「母さん。ありがとう。色々心配させてごめん。
前にもちらっと言ったけど。
まず 僕は 千春とは離れないし 結婚と同様の関係だと認識してほしいんだ。
そして クリニックについては 未定だ。継ぐつもりはあるけど あそこは姉さんにとっても実家だからね。来るなとは言えないし。
僕も冷酷な人間じゃないよ。深く接触しなければ 親戚なんだからね。判ってる。
僕は 今 バ じゃない高田と会社形式で 老健檀を経営する会社役員だ。そこからの収入がある。まだ黒字って訳じゃないけど。そして賃貸マンションを持っていてその家賃収入がある。
今住んでいるこのマンションは 千春が購入して千春名義だから 姉さんには関係が一切ない。
あと何年かすれば 老健も少し黒字に転じると思う。
今の病院勤務は 中々勉強になるんだ。救急病院だし総合病院だからあらゆる科もあるし。
だから今のところ まだ このマンションから引っ越すつもりはないけど、クリニックは続けて行くつもりだよ。
僕は はっきり言って 千春と生きていくつもりだから 病院でもクリニックでも構わないんだ。
将来 姉さんと 話がこじれて クリニックやその土地を 姉さんが欲しければ 構わない。
その為に老人ホームや賃貸マンションを持っているから。
クリニックに勤務出来なければ 正行の病院で勤務も出来る。老人ホームの嘱託医でも出来る。
だから 姉さんとは争いたくない。
姉さんが クリニックの不動産が欲しいなら 要らない。
でも 今 あの3階を 人に貸すのは 賛成出来ない。
姉さんがこちらに来たとき 3階を使いたいなら 僕は引っ越しをしても構わない。こっちに荷物を持ってくる。こっちは広いからいくらでも置ける。
姉さん達なら 家具は使うだろうから 置いていっても良いし。
ま それも含めて お父さんにまかせる。
お父さんが判断することだから。
姉さんだって 悪気があって言っている訳じゃないと思うよ。
義兄さんが 何か言ったことを 拡大解釈したんじゃないかと思うよ。」
「うん。ありがとう真弓。
冴子も 言いながら 興奮して エスカレートしていったのもあると思うわ。
千春さん 家族の恥を 見せてごめんなさいね。」
千春は 黙って 僕と母のやり取りを聞いていた。
僕は 千春と穏やかな 家庭を 築けていることの 幸せを 感じていた。
母も 理解してくれていたように思う。
普通は 穏やかに 癒されるのが 家族 家庭 というものだろうと 思うのだが。
その日 母は 食器洗浄機に目を丸くしたり 静かな環境に 驚いたりしていた。
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