アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
花瓶の亀裂
-
はとちゃんの母親の状況を電話で知らせてくれたのは、大坪さんだった。
こうして話すのは、はとちゃんが仙台で就職出来た報告をした以来だ。
「……よっ、余命って……はとちゃんのお母さんってまだ50……代、でしたよね?」
「ええ。長年投薬治療を受けて閉鎖病棟暮らしでしたから、運動不足もあって……。昭知くんが成人する前にも、軽い心臓発作を起こしたことがあります。どうしても、心臓や腎臓、肝臓……薬の常用によって負荷のかかる臓器が出てきてしまうんです。精神疾患を持つ方の平均寿命は、比較するとやはり短い傾向にあります」
確かに俺は、呪った。
はとちゃんを虐待した人間め、一生病院を出てくるな、そんな願いを持ってしまった。
とはいえ、こんなことになるなんて。
もっともっと、先の出来事だと思ってた。
「……ある意味、こうして伝えられるのは、昭知くんが病院から出て、自立出来ているからなんです。これまでなら、体調面への影響を考えて、伝えなかったでしょうね」
「直接、伝えました? 俺を挟んで伝えたいっていうことですか?」
「あなたは誰よりも彼に伝わる言葉をお持ちです。支えてあげて下さい。彼の、明子さんへの感情はとても……複雑ですから」
母親への愛憎。
はとちゃんの女性恐怖の根源にあるトラウマは、自身が起こした事件と、その事件につながる被虐待だ。
恨んでいいのに、はとちゃんはそうしない。
自分を傷付けたことはおろか、存在そのものを忘れてしまった人のことを。
ある意味、チャンスでもあるのだろう。
こんなどうしようもない母親から解放され、過去の呪縛が解けうる。
出来る限り優しい言葉で状況を知らせると、はとちゃんはうろたえた。
何か言葉にしようとして、上手く出来なくて、苦しそうに頭を抱えた。
俺でさえ耳を疑って混乱したのに、はとちゃんがこうなるのは至極当然だ。
身を寄せてよしよしと頭を撫でると、唇も肩もかすかに震えていた。様子を察したのか、むむが膝に擦り寄ってはとちゃんの顔をうかがっている。
むむの背中を撫でながら、ぽつりと呟く。
「…………ぼくのせいかなあ」
無理に先を急かさず、黙って身体をさする。顔も身体もはとちゃんに向けて、話を聞く態度をさりげなく表しておく。
寒くなってきてまた入れ直したこたつ布団に、カーペットも敷いた居間はすっかり秋の空気だ。去年買ってあげた靴下を履いた足の指が、もぞもぞと動いている。
「ぼくが、ひとりぼっちのお母さんを、おいてったから……ぼくが、ぼく、お母さんをたすけてあげたい。あげたかった、のに、うう、なんか……どうしよう、どうしたらいいのかなあ、わかんない」
「お母さん、あんまり意識がはっきりしてないみたいだから、会いに行くことに意味があるかどうかは分からないけど……どうしたい? お見舞い、行きたい?」
「行く」
はっきりとうなづいて答えた言葉に、本当に俺たちは逆だな、と感じる。
縁を断ち切り喜ぶ俺。
拒絶された縁を結ぼうとするはとちゃん。
どちらが正しいのか分からないけど、今度こそ俺もそばにいたいと思った。
支えになりたい。
俺が支えられてる以上に。
「未だ恋愛ごっこ続けてるのか、ぽっと出の眼鏡」
「…………お、大坪さんに会えると思ったら……そっちも眼鏡じゃないですか……」
「おばさんで残念だったね。通院同行とか支援手続きとか、そういう物事を動かすのは管理人とはまた別の人間がやるよ。有能だけどオーバーワークを率先してやるタイプだから、あれには残業代出さずに制限するくらいがちょうどいい。……久しぶり、ちょっと肉付きが良くなったかな? あきちゃん。元気そうでなにより」
夜行バスから電車とバスに乗り、辿り着いた病院の入り口で待っていたのは、持倉さんだった。
はとちゃんは持倉さんの目をおっかなびっくり見つめ、ぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです。お母さんを、おみまいしてくれるんですか。ありがとうございます」
「あはは、悪いけど仕事だから来ただけだよ。明子さんが死んだら後処理のこともあるし、打ち合わせが要るんでね」
死、という言葉に、はとちゃんの表情が動揺でくもる。
……この人、相変わらずずけずけと歯に衣着せぬ物言いだな。
白い内装の病院の内部を進みながら、持倉さんは話す。個人情報だろうが、いいのだろうか。
「内臓がね、もう色々と駄目。急性の硬変が進んでいて、もう新年は迎えられないだろう、という状態。手術でどうこう出来る段階じゃない。痛みを減らすことだけ、末期だ。病院で出来ることもそう多くないし、いっそあきちゃんと最期を暮らしたらどうか、って病院側から聞いてみたようだけど、やはり存在自体を否認してる。残念だったね。いや、その方が都合がいいか? ぽっと出」
「名前で呼んでください」
持倉さんは振り返り、結わえた茶色い髪の束が揺れる。眼鏡の奥の瞳は鋭い。
「狭川柊人。お前が、お前たちがしてるのはごっこ遊びだ。支配と服従を恋愛と勘違いしたSMプレイだよ。指輪じゃなくて首輪を付けさせたいんじゃないか?」
持倉さんが開いた左手の薬指で、指輪が揺れる。相変わらずの態度だが、こんな風に詰問してくれるのはある意味でとても重要なのかもしれない。
覚悟を新たにしてくれる。
「……遊びでこの人を幸せに出来るなら、永遠にごっこ遊びしますよ。勘違いでもなんでも、首輪だっていい。過程が間違いでも、答えが合っていたらそれでいいでしょう」
つないだ手を握りしめると、はとちゃんは握り返した。ぎこちない指の震えが伝わる。
持倉さんはやれやれと呆れた顔で俺たちを一瞥し、やがて病室の前に着いた。
土気色の肌をした女性が、いくつも管を取り付けられてベッドに横たわっている。
髪は白髪の方が多く、全体的に灰色だ。目や口元にシワが入り、本来の年齢より老けて見え、死が近いことを予感させる。
ぼんやりと開かれた瞳や緩んだ口元は、なるほどはとちゃんにどことなく似ている。若い頃は美人だったのではないだろうか。
仕切りのカーテンを開けた俺たちに、波止崖明子は視線を上げた。鼻に酸素を供給する管らしきものが付いていて、ゆったりと喋りだした。
「あらぁ……? はじめましてですか、はじめまして……。あなたは……うふふ、来るなら言ってよ、お化粧してないわ」
あなた、と俺を見つめて声をかけられ、誰と勘違いしているのか分からず、曖昧に笑いかけた。
はとちゃんは、大事に抱えてきた花束を花瓶に入れようと、キョロキョロと花瓶を探した。
棚の上に置かれた花瓶は、砕けたのを無理やりテープで留められたような、ひびだらけの姿だった。
捨てられなかったのが不思議なくらいだ。
はとちゃんは、それでもその花瓶に花を挿し入れた。水を入れたら隙間からこぼれるだろう、ほんの数日しか花は保たないだろう、それでも、花を飾る。
中央で菊の花が凛と咲いている。
崩壊した家族をそれでも家族として考えようとする、悲壮な姿のように思えた。
「お花貰えましたよ、嬉しいですねー」
看護師が花束の包み紙をそそくさと片付けながら、明子さんに声をかける。
「……いくぶん意識はっきりしてますね。運がいいですよ、たくさん話しかけてあげて下さい」
これではっきりしているのか。にこにことして何か鼻歌まじりにぶつぶつ言っているのだが……?
「……あきこさぁん、久しぶりです」
はとちゃんは、そう呼びかけて手を振る。
お母さん、じゃない。
息子としてじゃなく、お見舞いに来た誰かのような、寂しいよそよそしさ。
「……ごめんなさい、せっかくお花をいただいたのに……私、この方とお付き合いしているの。でも、きれいだわあ」
俺を指差しながらふわふわとそう言い切るので、驚いて素っ頓狂な声が出る。
「もしかして、旦那さんと勘違いなさっているのかも。適当に話を合わせて差し上げて下さい。退行気味で、よくあるんですよ」
看護師が小声でそう教えてくれた。
持倉さんは他の看護師と何か話をして、ふいっと病室を出ていってしまった。
「…………お父さんと、しゅうとさん、にてないのに……」
はとちゃんは丸椅子を俺の分まで持ってきて、腰掛けてそばで母親を見つめる。
悟ったような、さみしい目をしていた。
明子さんの話は要領を得なかったが、どうやらはとちゃんのお父さんと出会った頃に戻り、どこかでデートしている……という設定らしかった。
自分の子供じゃなく、初めて会った俺にばかりにこにこと話しかけ、ぼろぼろでしわの入った手で握手をされて、とても居心地が悪い。
時々はとちゃんが話に入ろうとするのだが、明子さんはあんまり嬉しそうじゃない。はとちゃんも、母親に俺の彼女面をされることがなんとなく嫌そうだ。
なんて無益な会話なのだろう。
やがて、話し疲れたのか起こしていた身体をベッドに横たえ、会えてよかったわ、と明子さんが呟くと、はとちゃんは丸椅子をベッドに少し近づけて、ひどく切ない心配そうな表情で衰えきった母親を見つめた。
「…………お母さん……」
小さな呟きと共に、はとちゃんは明子さんの手にそおっと触れる。
ぎこちなく手を引っ込められ、はとちゃんは遣る瀬無くベッドサイドの柵のところを掴んで、うつむいた。
猫背の背中が、しゅんとしている。
思わず撫でると、丸くなった背中を少し正して、深呼吸をひとつして、はとちゃんは話し始めた。
明子さんの一方的な話に仕返しをするかのように、はとちゃんは自分のことを、自分の言葉で、伝えた。
仙台というところに住んでいること。
掃除の仕事は大変だけどやりがいがあること。
前より読める漢字が増えて、自分はいていい人なんだと思う瞬間が増えたこと。
恋人がとても優しくて素敵なこと。
指輪を貰ったのが嬉しかったこと。
そして、はとちゃんは、何度も謝った。
お母さん抜きで幸せになろうとしてごめんなさい。
全然お見舞いに来なくてごめんなさい。
いい子じゃなくてごめんなさい。
お母さん。ぼくのお母さん。
なんで忘れちゃったの。
ぼくは生まれてこない方が良かったの?
せき止めていたダムが決壊したかのように泣きじゃくる子供を前に、明子さんは困ったような顔をしていた。
俺がはとちゃんの腰に手を回して寄り添うと、なにか不思議そうだ。
「……息子さんを、産んでくださってありがとうございました。俺が、この人を守りますから」
「こんなに泣いて……どうしたの? 赤ちゃんみたいね……変なの、お母さんになった気分。よしよし」
明子さんは、泣くはとちゃんの頭を撫でた。
気分どころではないのだが、妄想の世界から出る気は無いようだった。
彼女の世界に、はとちゃんはいない。
言外に、要らないと言っているも同然だった。なんて酷いひとなのだろう。
こんな奴のせいで泣かなくていいのに、はとちゃんは行き場のない感情を涙に変えて、明子さんにすがりついた。
お見舞いを終え、持倉さんの運転する車で『あまるていあ』まで送って貰った。
懐かしい風景だ。あ、山羊の絵。
中に入ると、あの小太りの円満くんが驚いた表情でこちらを見ていた。相変わらず小太りだ。むしろ更に太ったかもしれない。
「お前……どうした? 戻ってくんのか?」
はとちゃんに駆け寄り、肩を掴む。涙目で顔色が悪いはとちゃんを見て、そう判断したらしい。
「寄っただけだよ。部屋埋まってるでしょ。ちょっと上で大人の話するから。あきちゃんはどうする? あきちゃんが聞いても分からない話するし、あの時居た子たちと久々に話もしたいでしょ?」
「……うん……お話し、してます」
力なく持倉さんに返答し、はとちゃんは共有部の椅子にちょこんと座った。
徒労、のような、虚脱した表情だ。
人形みたいに綺麗だけど、なにか少し怖い。
「じゃあ、ちょっと打ち合わせしてくるね。……大丈夫だからね」
そっと抱きしめると、うん、と耳元でうなづいた。
以前話をした管理人部屋に通され、今後の話をした。
明子さんも生活保護を受けていて、財産となるような物は持っていないため、相続の心配事はない。
亡くなった場合、ご実家の方の墓に入れることになっている。はとちゃんのお父さんもそっちのご実家の方の墓に入っているから、それが自然なのだろう。
……すると、先の話とはいえはとちゃんが入る墓が存在しない、ということにはなるのだが、そもそも同性同士の俺たちには永代供養くらいしか一緒になれる墓なんて無いし、考えても仕方のないことだ。
葬儀などは行わない。
遺骨を分骨して、はとちゃんが手元に置いておける処理だけは行なってもらうことにした。
仏壇とか神棚とか無いけど、せめて少しでも心痛を楽にしてあげられたら、と思う。
話を終えて階下に戻ると、酒飲みの柴さんと失踪癖の白妙さんも集まり、同窓会のような状態になっていた。
白妙さん、今回は居るのか。
大坪さんがお茶菓子を用意して、皆で菓子を食べながら昔話に花を咲かせているようだった。
様子を眺めながら、大坪さんが母性溢れる慈愛に満ちた表情でニコニコしていた。
「ああ、お話は済みましたか。夜行で来られたというとお疲れでしょう、狭川さんも休んでいかれてはどうですか」
「ええ、そうします。あの輪には入れませんし、大坪さんとも話がしたかったし」
大坪さんの隣の椅子に座る。大坪さんははにかむ。
「僕ですか? 僕は半年じゃ大差ないですが……。ここにいるコアメンバーは変わりませんが、『あまるていあ』は顔触れが変わりました。以前居た姉妹は定職を持ってひとり……いや、2人立ちしましたし、昭知くんが以前使っていた部屋にはまた別の子が入居しました。今は就労移行事業所の方に行っています」
「おい彼氏、結婚写真見してくれよ」
柴さんがやたらうきうきしながら俺に話しかけてきた。携帯の画像フォルダから探して提示すると、うおお、という感じのどよめきが起こった。
「いいね、とてもいい。そう、光が差して……」
白妙さんに何らかのスイッチが入ったらしく、話そっちのけで立ち上がり自室へ戻り、出てこなくなった。インスピレーションが降りてきたのだろうか。
ちょっと憮然とした表情の円満くんが、
「……こんな幸せそうなのに、なんでおまえはいま、こんな不幸そうなの」
と、はとちゃんに問いかけた。
泣き止んだはずなのに、またワッと涙が出てきて、はとちゃんはうつむいた。
「ぼくのしあわせを、お母さんにあげたい。でも、できない。ぼくより、しゅうとさんとおはなしするのが、楽しそうだった。ぼくはいらなかった……」
あわててはとちゃんに駆け寄り、胸に抱いて涙を受け止める。
「俺ははとちゃんに会えて幸せだよ。俺にとっては要るよ、何よりも大事だよ、幸せになるのが親孝行みたいなものだよ、大丈夫」
ヨシヨシと慰めていたら、降りてきた持倉さんが俺たちの様子を見て鼻で笑った。
「円満くん、これがうらやましいの?」
「違ぇし。物とかくれるのがずるいだけ。俺はぜったい一人暮らしするし」
「お、じゃあ料理の練習要る? もう刺さないね?」
「信じてよ」
大坪さんが苦笑しながら自分のお腹の辺りをさすった。
それから仙台に帰ってからというものの、はとちゃんはぼんやりすることが増えた。
今年の夏は雨が多くて大変だったよねとか、そんな世間話が耳に入らない。
表情が人形みたいに力がなく、家ではこたつに入って、むむと一緒にだらしなくしている。
日に日に、はとちゃんは鬱々とした谷間へと落ちていくようだった。
また見舞いに行きたいとも、俺に見舞いを頼むこともせず、たまに小さく、お母さん、とつぶやく。
仕事をすると心が楽になると言うので週4回の勤務を続けたのだが、職場で動けなくなって早退してしまった後は、自信を失い、ジョブコーチとも話し合い、週1回に減らした。
こんな弱った状態のはとちゃんに欲情してしまう俺は、やはりクズなのかもしれない。
1発やった後みたいな感じでふにゃふにゃと寝転んでこたつに入っているから、可愛くて仕方がない。
かといってはとちゃん自身は欲求がわかないのは明白で、俺の欲求を押し付けるのも忍びない。
はとちゃんの寝顔や、弛緩した身体の柔らかさ、そんなものをおかずにして、風呂場でさみしく自己処理をした。
寝ているはとちゃんの太ももに擦り付けて出したいと何度も思い、それでも実行には移さず、やるせない気持ちが募る。
次第にはとちゃんは入浴を拒むようになり、身体を濡れタオルで拭ってあげたり、一緒にシャワーを浴びて泡だらけにして洗い流したり、介護の様相を呈してきた。
外出はおろか、布団から出ずに過ごしたり、はとちゃんは弱っていく。
病院で出される薬が増え、多少効果はあるのか時々はぱっと明るくパンを焼いたりするが、続かない。また淡々と落ち込む。
何か気晴らしに出かけよう、と声をかけても静かに首を振って拒む。
小学生向けの新聞は、ひとつも読まなくなってしまった。
日々沈んでいくはとちゃんに、何も出来ずにそばにいることしか出来ないのが辛くて、はとちゃんのいないところで時々、泣いた。
何度も何度も抱きしめて身体を方々撫でて、触れるだけのキスを繰り返して、これが嵐なら早く過ぎ去って欲しいと願った。
11月。
はとちゃんの母親が亡くなった。
享年56。多臓器不全だったそうだ。
送られてきた小さな骨壺を花瓶のそばに置いて、はとちゃんは毎日声を上げずに泣いた。
泣き叫ぶ与力もなく、ただだらだらと涙だけがはとちゃんのほおを濡らしていた。
……ようやくこれで自由になる。
この悲しみを乗り越えたら、はとちゃんは呪いみたいな家族から解き放たれる。
そんな期待を、この時は持っていた。
まるではとちゃんの辛さを分かっていなかったのだと知ったのは、
手遅れになってからだった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
34 / 43