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「──ああいう言い方は、ずるいなあ」
家の門を出た途端、廉は笑い含みにそう言った。
なんのことかと顔を見る枸々に、にこりと笑って、彼は続ける。
「でも、ありがとね。
おかげで、ぼくもホッとした」
その口調に、父親への愛情を感じる。それは枸々にはないものだったから、なんだか、ひどく眩しく感じた。
「大事なくてほんとうによかったです。
命を蝕む病には、治癒術では治せないものの方が多いから……」
もしも自分には手に負えない病であったら。
絶望を与えてしまうだけで、なんの力にもなれなかっただろう。
そういう場面に直面したとき、自分はなにを思うのか、枸々には想像ができなかった。
……もし、身近な誰かが病に侵されてしまったら。
伊万里や芒、日向、李雨、春臣、そして志野。
大切な人たちの避けられぬ死を悟っても、自分にはなにもできぬと知ったら。
考えたくもないことだった。
「……枸々ちゃん?」
廉に呼ばれて、ハッと顔を上げる。
沈んだ表情をしていたからか、廉は心配そうに枸々の顔を見ていた。
「どうかした?」
「……いえ、なんでも……なんでもありません。
それより、あなたはどこまでお見送りしてくださるつもりですか」
もう家からはかなり離れたところまで来ている。
街の中心にほど近いし、この道はよく知っているから、枸々が迷うはずもないのに。
そう言うと、廉は微笑して、ふいに枸々の手を引いた。
「まだ、夜は長い」
枸々は思わず、彼の手を払いのけようとしたが、ぐいと引っ張られて足がもつれた。
そのまま、引きずられるようにしてあとを追う。
動悸がはやくなり、嫌な汗が浮かんだ。
「廉……!」
呼びかけても、彼は振り向かない。
枸々はこの男の危険性をよく知っている。
片手に持っている薬箱をぶつけて逃げようかとも考えたが、これには大切な薬がたくさん入っている。
力では敵わないことはわかっているから、ふりほどくことは不可能と思っていい。
なにか、どうにかして、気を逸らすことはできないか……
助けて、と叫べば、誰かが助けてくれるかもしれない。
だが、廉の容姿はあまりにも目立つ。店に立つ廉の姿を見たことのある者がこれを知って、蓮華庵の評判が落ちるのは嫌だった。
「廉……は、放して……」
それだけ言うのが精一杯。情けなくて泣きそうだった。
──ほの明るい提灯の下がった店が立ち並ぶ。
色鮮やかな柱と、豪奢な装飾の施された露台。手招くのは、なよやかな手足を惜しげもなく晒したまだあどけない少年たち。
どの仔もみな、息をのむほど綺麗な顔立ちをしていたが、枸々は頭を伏せて、なるべく見ないようにした。
ここまで来てしまったら、もう諦めるしかない。どちらにせよ、今日は暗くなるまでに帰れないだろうと思って泊まる用意はしてきたから、どこに泊まろうが同じだろう。
なげやりにそんなことを考えながら、おとなしく廉のあとをついていく。
いわゆる遊郭と言われる場所を抜けると、今度はやけに閑散とした建物の並ぶ場所に出た。
出会茶屋と呼ばれる建物だが、わざわざ遊郭を抜けてここまで来る客は少ないだろう。
店自体も随分こぢんまりとした控えめなもので、はたから見ると空家のようにも見える。
そこのひとつに入っていき、居眠りしている店員の前に金を置くと、彼は勝手に部屋を選んで入っていってしまった。
店員を起こさぬよう、そのあとをそろそろとついていき、開けっ放しだった障子をそっと閉じる。
部屋は二間に分かれており、ふすまで隔てられた向こうの部屋で、彼は行灯に火をつけていた。
それを障子の前に立ったまま眺めていると、ふと廉が顔を上げて、枸々を手招いた。
「……」
ゆっくりと歩いていく。
二枚、布団だけが並べられた部屋。
微かに震える手で、後ろ手にふすまを閉じ、立ち尽くしていると、廉が立ち上がって枸々の腕を掴んだ。
「……ずいぶん、おとなしいけど?」
低い声だった。枸々は廉の顔を見ることができず、うつむいた。
と、どうしたことか、足元にぽつりと雫が落ちる。
それが自分の涙だと気付いた瞬間、枸々は自分のからだがガタガタと震え出すのを感じた。
急速に体温が戻ってくる。堰を切ったように、抑えていた感情が胸のうちにどっとあふれた。
なぜ、なにがどうして、こうなるのだ。
枸々がなにか悪いことをしただろうか?
いつも、いつも、自分勝手で、枸々の気持ちなどそっちのけで、ただ欲求を満たしたいがためだけにこんなことをして、それで満足なのか?
こんなところで、ぼろぼろになるまで抱かれて、重たいからだを引きずりながら帰るなんて、絶対に御免だ。
逃げるんだ。そうだ、逃げてやる。もう、知ったことか!
プツンと糸が弾ける音がした。枸々は廉の胸を突き飛ばし、ふすまを開け放って逃げた。
はだしのまま店を飛び出し、走って、走って、どこまで来たかわからなくなったころ、足の裏に礫が刺さり、痛みによろめき、地面を転がって、ようやく、枸々は止まった。
熱いものが腹から喉へ込み上げてきて、嗚咽が止まらなかった。声を上げて泣きながら、震えるからだを思い切り抱きしめる。
置いてきてしまった。大切な薬箱も、着替えも、履物も……彼も。
──廉との出逢いは、いま思い出しても最悪なものだった。
その日は、雨が降っていた。
傘を持っておらず、店の軒下で雨宿りをしているとき、向かい側の店から手招いてくる男がいた。
枸々は迷ったが、しばらく止みそうにない雨をここで待つより、かくまってもらえるならそのほうがよいだろうと、招かれるままその店に入った。
そこは小さな酒場だった。
酒のにおいが充満し、不快だったが、とりあえずその男に礼を言った。
にこにこと人懐こい笑みを浮かべるその人は、かなり珍妙な容姿をしていたが、悪い人には見えなかったから、しばらく椅子を並べて談笑していた。
酒を勧められ、断れずに飲み、それを繰り返しているうちに記憶がなくなり、気が付いたときには、素っ裸で布団の中にいた。
からだの節々が痛く、特に腰から下の痛みが尋常でなく、一度も男に抱かれたことのない枸々にも、これはそういうことなのだとわかった。隣で気持ちよさそうに眠っている男に殺意がわいたが、彼を殴れるような余裕もなく、その日は一日中宿で過ごした。
その間、男はずっと枸々のそばにいたが、少しも悪びれる様子がない。やけに上機嫌で枸々に触れてくるのが、余計に気味が悪かった。
それからは街で目立つ恰好の彼を見かけると、必ず逃げ続けていたが、あるとき、あの茶屋でばったり出くわしてしまった。
どうか忘れていてくれ、と内心願ったが、彼は枸々のことを憶えていた。
旧知の友のようになれなれしくしてくるものだから、さすがに癇に障って、枸々はそっけなく接した。
それでも男は楽しそうに枸々に話しかけてくる。こういう話し相手のいなかった枸々にとっては、どうしてもそれが新鮮で、次第に彼との会話に惹き込まれてしまった。
ハッとしたときには、すでに店の閉店時刻で、慌てて帰ろうとしたところを、彼に捕らえられて……枸々はまた、同じ過ちを犯した。
違ったのは、酒がなかった分、感触が鮮明だったことだ。
嫌だ嫌だと泣いてわめいても、彼はやめてくれなかった。ほんとうに、怖かった。
もう二度とこんな男に会うものかと決心し、街を歩くときは細心の注意を払った。ただ、彼を避けるために、あの茶屋に通うのをやめるのはどうしても嫌だったから、入る前には中を確認してから入店し、店内では食べずにお土産だけを買ってそそくさと帰る。そういうことを繰り返していたのだが、さすがに時間が経って、気が緩んでいた。
簡単に捕まってしまったばかりか、わざわざああいう場所に連れ込みやすい状況を自ら作ってしまった。
彼の父親を診たことは後悔していないが、やはり、うかつだったとは思う。
……でも、やっと逃げ出せた。ざまを見ろと笑ってやりたいのに、なんだか、ひどくつらくて、哀しくて、少しも笑える気がしなかった。
「……わたしは……」
なにをやっているんだろう?
「廉……」
思い返せば、嫌な思い出ばかり蘇る。
でも、枸々は彼の笑顔が、嫌いではなかった。澄んだ空色の眸が綺麗だと思った。周りの者が、腫れ物に触るような目で己を見る視線に気付いていたはずなのに、あの人はつねに背筋を伸ばして、堂々としていた。
──すごいな、と素直に思った。
父親や、周りの目をいつも気にして、ビクビクしていた自分とは違う。
……自分もあんなふうだったら、と一瞬考えて、恥ずかしくなったものだ。
思い返しながら、枸々は笑った。
やはり彼のことは怖いと思う。それでも、父親を想って、優しい目をしていた彼のことを、枸々は嫌いにはなれなかった。
……もっと、ちゃんと話し合えたら。
ただ怯えて、目を逸らすでなく、彼の話をちゃんと聞けていたなら、少しは違っていただろうか……
ぼんやりとそう思ったとき、遠くのほうから砂利を踏む足音がした。
慌てて上体を起こして、立ち上がろうとしたが、足の裏に刺さった石のせいで、上手く足が動かない。
薬があれば……そう思って歯噛みしたとき、誰かが枸々の名を呼んだ。
ハッと顔を上げた先に、駆け寄ってくる廉の姿が見えた。
「……どうして……」
まさか、捜してくれたのだろうか?
とっくに帰っただろうと、思っていたのに。
「……枸々ちゃん、やっと見つけた!」
頰は上気し、髪も着物もひどく乱れている。
息を切らしながら、崩れ落ちるようにそばに膝をついて、枸々に手を伸ばした。
思わず、ビクッとからだが強張る。
廉は一瞬眸を揺らして、そっと、手を引っ込めた。
「……ごめんね」
「……」
「枸々ちゃん、ごめんなさい」
心からの言葉だと、泣きそうな顔を見ればわかる。それだけに、枸々は戸惑った。
「……どうして、謝るのですか……?」
「……きみを傷付けたから」
「そんなの」
たまらず、声が震えた。
「そんなの、今更……」
「……」
枸々は首をふった。
「謝っても、許しません」
「……うん」
「そんな泣きそうな顔をなさってもだめです。
許しません」
「うん」
「許しません!」
「うん、ごめんね」
一度止まった涙が、またあふれ出す。
ためらいがちに伸ばされた手を、枸々は、今度は拒まなかった。
両手で頰を包み、こつんと額を重ねる。
微かに吐息が触れた。
「ねえ……ぼくのことが、怖い?」
「……怖い……」
「無理矢理抱いたから?」
「い……嫌だって言っても、やめてくれなかった……っ」
「うん」
「痛かったのに……っおかしく、なりそうで、すごく怖くて、なのに、な、何度も……っされて……!」
「うん……やだった?」
「やだった……っ」
「……そっか。そうだよね」
「もう、しない……」
「うん。しない」
「絶対しない!」
「約束する」
囁いて、壊れ物を扱うように、枸々のからだを抱き締める。
あたたかい体温がじわりと染み込んで、少しずつ、枸々の心を落ち着かせた。
「……廉……」
「……枸々ちゃんは、ぼくのことが嫌い?」
そっと問われて、枸々はゆっくりと首を横にふる。
背中に添えられた手に、わずかに力がこもった。
「いいよ、ほんとうのことを言って」
枸々はもう一度首をふった。
「……きらいでは、ないです」
「……ほんと?」
今度は頷く。
首筋に、彼の吐息が触れた。
「枸々ちゃんは優しいね……」
「……」
「ぼくは、きみのことが好きだよ」
思いもよらぬ言葉だった。
彼は腕に力を込めると、胸が息苦しくなるほど強く抱き締めた。
「ずっと、好きだったんだよ。
……知らなかった?」
かろうじて頷く。
掠れた笑い声が胸に響いた。
「結構、わかりやすいつもりだったんだけど」
「……い、いつから……?」
彼は少し間を置いて、思い返すように言った。
「たぶん、初めて逢った日から」
「まさか……」
「……あの日、酔ったきみを宿に運んで、どうしようか考えていた。
潰れるほど飲ませたのはわざとだ。最初から宿に連れ込むつもりだった。
でも、思いの外気分が悪そうで……何度か吐いてたし……ちょっと可哀想かなって思った。
そのうち、わんわん泣き出しちゃってさ。
頭を撫でたり、背中をさすったりして慰めてたんだけど、その……涙声で、廉、廉って呼んで抱き付いてくるものだから、どうしようもなくムラムラして、そのまま抱いた」
「……」
「こういうことを言うのは……我ながら気持ちが悪いんだけど……
きみの泣き顔って、すごく……そそるんだよね。いけないってわかってたけど、泣いて嫌がる顔が見たくて、わざとひどいことばかりした。
あんなにゾクゾクしたのは久しぶりだった。
あの日から、ずっときみのことが頭から離れなくて」
「……」
「二回目に会ったときも……ああ、そう、きみと話しているとほんとうに楽しくて、時間がすぎるのがあっという間だったなあ。
それで、そのあと宿で……ああ……あのときのきみはほんとうに可愛くて……」
「廉……」
「ぼくに怯えて震えてる表情がまた、なんとも……」
「廉……もういいです……」
げっそりして言うと、廉は苦笑して枸々からからだを離した。
「……ごめんね。ぼくって、こういう人間なんだよ」
「よく……わかりました」
不思議と、気が抜けた。笑えていることが我ながらおかしかったが、なんだか、ようやくすべてのことに合点がいったような気がして、枸々はホッとしていた。
長く息を吐き、彼の胸にとんと頭を乗せる。
急激に眠気が襲ってきて、抗えぬまま、枸々はゆっくりと意識を手放した。
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